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ダイガクコトハジメ - 立花種恭

立花種恭

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参考文献・書籍

 

年表

立花種恭

たちばなたねゆき

1836(天保7)年4月13日(旧暦・2月28日) - 1905(明治38)年1月30日

陸奥下手渡藩第3代藩主、筑後三池藩主、学習院初代院長

  • 1836(天保7)年4月13日(旧暦・2月28日) 立花種恭(1歳)、陸奥下手渡藩第2代藩主・立花種温の叔父・立花種道の長男として生まれる。

  • 1849(嘉永2)年 立花種恭(14歳)、陸奥下手渡藩第2代藩主・立花種温が死去。養子として跡を継ぐ。陸奥下手渡藩第3代藩主に。

  • 1850(嘉永3)年 立花種恭(15歳)、所領のうち、伊達郡内3,078石余に代え、筑後三池郡内5,071石を与えられる。

  • 1862(文久2)年6月 立花種恭(27歳)、佐幕派として行動。幕府14代将軍・徳川家茂の側近として、大番頭に。長州征伐、幕府軍として参加。

  • 1863(文久3)年 立花種恭(28歳)、若年寄に。

  • 1867(慶応3)年 立花種恭(32歳)、老中格兼会計総裁に。翌1868(慶応4)年3月、罷免。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 立花種恭(33-34歳)、​戊辰戦争、陸奥下手渡藩士が奥羽越列藩同盟に参加も、筑後三池藩は明治新政府への恭順を決定。筑後三池藩主として、京都に。矛盾した行動は、奥羽鎮撫の命を受けたことで同盟側に知られる。仙台藩によって攻撃され、藩庁焼失。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

  • 1869(明治2)年 立花種恭(34歳)、​版籍奉還、知藩事に。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年 立花種恭(36歳)、廃藩置県、知藩事退任。

  • 1877(明治10)年7月8日 立花種恭(42歳)、子爵に叙せられる。

  • 1876(明治9)年、皇族・華族のための教育機関として、改めて学校を整備。華族学校に名称変更。

  • 1876(明治9)年6月 諸葛信澄(28歳)学習院開校に先立ち、華族会館より華族学校学監心得を命じられる。11月、学監に。翌1877(明治10)年5月、開校を前に解任。

  • 1877(明治10)年10月、華族学校より改めて学習院に改名。神田錦町に皇族・華族の教育機関として学習院設立。明治天皇、「学習院」勅額を下賜。

  • 1877(明治10)年10月17日 立花種恭(42歳)、学習院初代院長に。

1884(明治17)年4月 学習院、宮内省所轄の官立学校に

学習院学制および女子学習院学制に基づく教育機関で、華族の子弟なら原則として無償で入学することができた。学制に基づく文部省管轄の学校と必ずしも一致しないが、初等科は尋常小学校、中等科は中学校・高等女学校、高等科は旧制七年制高等学校に相当。

1884(明治17)年7月7日 華族令

制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。

​1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)

君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。

明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。

版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。

衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。

  • 1890(明治23)年7月 立花種恭(55歳)、貴族院子爵議員に勅撰。

  • 1905(明治38)年1月30日 立花種恭(70歳)、死去。享年、70歳。

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