ダイガクコトハジメ - 慶應義塾大学
慶應義塾大学
創立 : 1858(安政5)年
大学設立: 1920(大正9)年
創立者 : 福澤諭吉
前史 :
中津藩邸に開かれた蘭学塾「一小家塾」を起源に → 蘭学塾より英学塾に転身 → 慶應義塾 → 慶應義塾大学
藤原工業大学 → 慶應義塾大学工学部
和田塾 → 慶應義塾幼稚舎
「慶應義塾大学」年表
1850(嘉永3)年頃
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佐久間象山、私塾「象山書院」に近い江戸中津藩邸より、多数の中津藩子弟を受け入れ。砲術・兵学を教える。島津文三郎のように、直伝の免許を受けた者もいた。中津藩のため、西洋式大砲二門を鋳造。しかし、1854(嘉永7)年に吉田松陰の密航事件に連座し、投獄・蟄居に。
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江戸鉄炮洲の中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。
1849(嘉永2)年
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杉亨二(20-21歳)、 江戸に出て、江戸中津藩邸の「蘭学塾」で講師に。
1858(安政5)年
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福澤諭吉(22-23歳)、幕末時勢の中、中津藩より江戸出府を命じられ、「適塾」を去る。江戸中津藩邸に開かれていた「蘭学塾」の講師となるため、古川正雄(後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い、江戸へ。築地鉄砲洲にあった奥平家中屋敷に住み込み、蘭学塾「一小家塾」にて蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。「慶応義塾」の起源に。
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福澤諭吉、蘭学の総本山、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が江戸中津藩邸とほど近く、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らと共に出入り。終生深い信頼関係を築く。
1859(安政6)年
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福澤諭吉(23-24歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。「蘭学塾」が英学塾に転身する契機に。
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福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。「蕃書調所」へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、「蕃書調所」の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。
1860(安政7)年1月18日/2月9日 - 1860(万延元)年9月27日/11月9日
万延元年遣米使節、1858(安政5)年6月19日/7月29日締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを「軍艦操練所」教授・勝海舟をはじめとする「海軍伝習所」出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。
1860(安政7)年1月18日/2月9日 - 1860(万延元)年9月27日/11月9日
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福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。
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福澤諭吉(25歳)、アメリカにて、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関して衝撃を受ける。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないなど、不思議に思う。
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福澤諭吉(25歳)、アメリカにて、通訳・中浜万次郎(ジョン万次郎)と共に、『ウェブスター大辞書』省略版を購入。日本へ持ち帰り、研究の助けに。
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福澤諭吉の万延元年遣米使節渡米留守中、「蘭学塾」門下生の手により、翻訳途中だった『万国政表』を完成。
1860(万延元)年
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福澤諭吉(25歳)、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。公文書を翻訳。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。
1860(万延元)年
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福澤諭吉(25歳)、アメリカより帰国後、江戸鉄炮洲中津藩邸内にて、講義再開。しかし講義内容は従来のオランダ語ではなく、専ら英語に。蘭学塾から英学塾へと方針転換。
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福澤諭吉、アメリカより帰国後、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集『華英通語』の英語にカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』出版。初めて出版した書物に。
1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日
文久遣欧使節団、1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎、福澤諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。
1862(文久元)年1月1日/1月30日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日
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福澤諭吉(27-28歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。
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福澤諭吉(27-28歳)、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。
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福澤諭吉(27-28歳)、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。
1863(文久3)年 -
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福澤諭吉(27-歳)、文久遣欧使節の品川帰港の翌日に英国公使館焼き討ち事件、1863(文久3)年3月に孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月に石清水八幡宮への行幸を受け、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つように。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるなど、外出も難しい世情に。
1863(文久3)年7月
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福澤諭吉(28歳)、薩英戦争、幕府翻訳方の仕事が忙しくなる。外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳。
1864(元治元)年7月/8月
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福澤諭吉(29歳)、禁門の変、長州藩追討の朝命が下り、中津藩に出兵を命じられるも、拒否。代わりに、以前より親交のあった仙台藩・大童信太夫を通じ、「江戸中津藩邸塾」の横尾東作を派遣。新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳、諸藩を援助。
1864(元治元)年
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福澤諭吉(28-29歳)、郷里中津に赴き、小幡篤次郎・小幡甚三郎・三輪光五郎ら6名を江戸に連れてくる。
1864(元治元)年
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小幡篤次郎(21-22歳)、江戸より帰藩した福澤諭吉に勧められ、弟・小幡甚三郎と共に江戸に出る。「江戸鉄砲洲中津藩邸塾」に入塾。英学を学ぶ。
1864(元治元)年
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小幡甚三郎(17-18歳)、江戸より帰藩した福澤諭吉に勧められ、兄・小幡篤次郎と共に江戸に出る。「江戸鉄砲洲中津藩邸塾」に入塾。
1864(元治元)年6月
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浜野定四郎(18-19歳)、 福澤諭吉帰郷、伴われて出府、江戸へ。「江戸鉄砲洲中津藩邸塾」に入塾。卒業後、講師に。
1864(元治元)年10月
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福澤諭吉(29歳)、外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕。臨時御雇いではなく、幕府直参として150俵・15両を受け、御目見以上となり、御旗本に。
1865(慶応元)年
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福澤諭吉(29-30歳)、江戸幕府の長州征伐の企てについて、幕臣として『長州再征に関する建白書』献策。大名同盟論の採用に反対、江戸幕府存続のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとる。
1866(慶応2)年 -
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福澤諭吉(30-歳)、ヨーロッパの状況を日本に紹介、『西洋事情』刊行。初編3冊、外編3冊、2編4冊の10冊。その内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及ぶ。著書を通じ、啓蒙活動を展開。
1867(慶応3)年12月25日
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福澤諭吉(31-32歳)、塾建設用地として、芝新銭座の久留米藩有馬家中屋敷を355両で購入。
1867(慶応3)年1月23日/2月27日
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福澤諭吉(31-32歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。津田仙・尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込む。
1867(慶応3)年12月9日/1月3日
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年
戊辰戦争
1868(慶応4)年
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福澤諭吉(32-33歳)、江戸開城、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。
1868(慶応4)年3月
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福澤諭吉(33歳)、塾を江戸鉄炮洲中津屋敷より芝新銭座へ移転。
1868(慶応4)年4月
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福澤諭吉(33歳)、塾を「慶應義塾」と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は「慶應義塾」内に「紀州塾」という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
1868(慶応4)年5月15日/7月4日
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福澤諭吉(33歳)、上野戦争、明治新政府軍と彰義隊の合戦が起こる中、「慶應義塾」でF・ウェイランド『経済学原論』の講義を続ける。「日本国中苟も書を読んで居る処は唯慶応義塾ばかり」。
1868(明治元)年
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箕作秋坪(41-42歳)、浜町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷の一角を借り、私塾「三叉学舎」を創立。漢学、数学に加えて、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語が教えられる。福沢諭吉の「慶應義塾」と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。
1869(明治2)年4月/5月
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柳田藤吉(30-31歳)、戊辰戦争で財を成し、社会に貢献したいと福澤諭吉・箕作麟祥に相談。私塾を起こすことを勧められ、洋学校「北門義塾」創立。この事業に賛同した三井家が、所有する早稲田の建物(元高松藩下屋敷)を提供。山東一郎・松本良順が学校を管理することに。
1869(明治2)年
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福澤諭吉(33-34歳)、熊本藩の依頼により、本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳。
1870(明治3)年
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福澤諭吉(34-35歳)、新銭座の土地を近藤真琴に300円で譲渡。「攻玉社」移転。「慶應義塾」の移転先として、三田の旧島原藩中屋敷の土地払い下げを東京府に交渉。内大臣・岩倉具視の助力を得、実現。
1870(明治3)年
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荘田平五郎(22-23歳)、再度の藩命により、江戸へ。念願であった「慶應義塾」五等試験に合格、入塾。
1870(明治3)年
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森下岩楠(17-18歳)、「慶應義塾」卒業。「慶應義塾」教授に。
1870(明治3)年
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小幡甚三郎(23-24歳)、文部省入省。『西洋学校軌範』を記す。1872(明治5)年の学制整備にあたり、この学校制度案が採用されることに。
1871(明治4)年
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福澤諭吉(35-36歳)、三田の地に「慶應義塾」移転。帳合之法など、講義を始める。
1871(明治4)年4月
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小幡甚三郎(25歳)、「慶應義塾」の芝新銭座から三田に移転に伴い、教授法の整備や会計事務などに尽力。
1871(明治4)年
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高島嘉右衛門(38-39歳)、スイス人カドレー、アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授、語学中心の私塾「藍謝堂(高島学校)」を横浜伊勢山下と入船町に開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに「慶応義塾」の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎、浜尾新、日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心、寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。
1871(明治4)年
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荘田平五郎(23-24歳)、「慶応義塾」より「藍謝堂(高島学校)」へ、派遣教員に。
1871(明治4)年
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小幡甚三郎(24-25歳)、「慶応義塾」より「藍謝堂(高島学校)」へ、派遣教員に。
1871(明治4)年
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濱尾新(22-23歳)、「慶応義塾」在学中、派遣教員となり、「藍謝堂(高島学校)」赴任。
1872(明治5)年2月
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福澤諭吉「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」、『学問のすゝめ』初編刊行。1876(明治9)年11月25日にかけて順次刊行、17編出版をもって一応の完成をみる。初編のみ、小幡篤次郎共著。明治維新直後の日本人に対し、中世的な封建社会から近代民主主義国家への転換、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念など、平易な比喩を多用して説く。総発行部数300万部以上とされ、当時日本の人口が3,000万人程であったことから、全国民の10人に1人が手に取った計算に。
1872(明治5)年
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荘田平五郎(24-25歳)、「慶応義塾」教員に。「慶應義塾大阪分校」に派遣される。
1873(明治6)年7月
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森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成学校」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年9月4日
1873(明治6)年
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荘田平五郎(25-26歳)、臼杵藩学取締に。「慶應義塾」にて藩主・稲葉久通を教授。
1873(明治6)年
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矢野龍渓(21-22歳)、「慶應義塾」卒業、講師に。同窓に、馬場辰猪、和田義郎、森下岩楠、猪飼麻次郎ほか。
1873(明治6)年10月24日-10月25日
明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
1873(明治6)年
1874(明治7)年3月
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高島嘉右衛門(41-42歳)、「藍謝堂(高島学校)」焼失。学生は、「慶応義塾」、「東京開成学校」へ転籍。
1874(明治7)年3月 - 1875(明治8)年
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森有礼(27-28歳)、「明六社」にてら機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たした。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散となる。後に、「明六社」は「明六会」となり、福澤諭吉を初代会長とする「東京学士会院」、「帝国学士院」を経て、「日本学士院」に至る。
1874(明治7)年4月10日
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板垣退助(36-37歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的に政治団体「立志社」結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う「立志学舎」創立。教員に、「慶應義塾」を卒業した江口高邦と深間内基、矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造、久米弘行、森春吉が駆けつける。「慶應義塾」と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。
1874(明治7)年
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福澤諭吉(38-39歳)、明治六年政変で、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の「立志学舎」に「慶応義塾」門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援、国会開設運動の先頭に立ち、『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。
1874(明治7)年6月 -
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福澤諭吉(39-歳)、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を「慶応義塾」出版局より刊行。複式簿記を提唱。
1874(明治7)年
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荘田平五郎(26-27歳)、「慶應義塾京都分校」に派遣。和魂洋才の「学問・儒学と算盤の両刀使い」ぶりを十分に発揮。
1874(明治7)年
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荘田平五郎(26-27歳)、東京三田に戻り、再び「慶応義塾」で教鞭をとる。
1874(明治7)年
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矢野龍渓(22-23歳)、「慶應義塾」の機関紙『民間雑誌』に、『商ニ告ル文』発表。『西洋偉人言行録』出版。
1874(明治7)年
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福澤諭吉の高弟・和田義郎が、「慶應義塾」塾生で最も幼い者数名を三田の「慶應義塾」構内にある自宅に寄宿させ、夫婦で教育を行う。この「和田塾」が、「慶應義塾幼稚舎」の始まりに。
1874(明治7)年
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福澤諭吉(38-39歳)、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった「慶應義塾」門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせた。
1875(明治8)年5月1日
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三田演説館竣工
1875(明治8)年
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荘田平五郎(27-28歳)、嘱望され、三菱商会に入社。有能な人材を実業界に供給するのが「慶應義塾」の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底に。また、当人も自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。東京本店勤務、三菱汽船会社規則を策定。
1876(昭和9)年
代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立、前後より各地で試験準備のための私塾的な法律学校が開校。
1876(明治9)年2月
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福澤諭吉(41歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。
1876(明治9)年
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矢野龍渓(24-25歳)、「慶應義塾」大阪分校の校長に。
1877(明治10)年11月
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福澤諭吉(42歳)、『分権論』刊行。廃藩置県を歓迎、「政権」と「治権」の全てを政府が握るのではなく、「治権」は地方に委ねるべきであるとする。廃藩置県を成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じる。
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福澤諭吉(42歳)、『丁丑公論』論説。西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張。
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福澤諭吉、『通俗民権論』・『通俗国権論』・『民間経済禄』など、官民調和を主張、初歩的な啓蒙を行う。自由主義を紹介する際、「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」の言葉を用い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らす。
1877(明治10)年
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荘田平五郎(29-30歳)、福澤諭吉『帳合之法』が提唱する複式簿記を採用し、郵便汽船三菱会社簿記法を纏める。これにより、三菱は大福帳経営を脱し、徐々に近代的な経営組織を確立。
1877(明治10)年
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矢野龍渓(25-26歳)、「慶應義塾」徳島分校の校長に。
1878(明治11)年頃
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浜野定四郎(32-33歳)、「慶応義塾」塾長に。
1878(明治11)年3月
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森下岩楠(26歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に「三菱商業学校」創立。初代校長に。教官のほとんどを「慶應義塾」の門下生で構成。「慶應義塾」の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成した。
1879(明治12)年12月
1879(明治12)年
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福澤諭吉(43-44歳)、狸橋南岸一帯(現在の港区白金)の土地を買収、別邸を設ける。この場所に、「慶應義塾幼稚舎」が移転。また東側部分が「土筆ケ岡養生園」(後の「北里研究所」、「北里大学」)となる。
1879(明治12)年秋 -
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福澤諭吉(44-歳)、「慶應義塾」外の京橋南鍋町に「簿記講習所」設立。
1880(明治13)年
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定、「代言人規則」改正により資格試験が厳格化、本格的な法律学校が設立されるように。
1880(明治13)年9月14日
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相馬永胤(29歳)、「慶應義塾夜間法律科」を独立させる形で、「三叉学舎法律経済科」、「東京攻法館法律科」の3社を統合、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格と共に「専修学校」創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。「明治法律学校」、「東京専門学校」、「東京法学校」、「英吉利法律学校」と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、「簿記講習所」を仮校舎として利用。
1880(明治13)年
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福澤諭吉(44-45歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、「慶應義塾」出身者を中心に、「交詢社」創立。名称は、「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。
1880(明治13)年
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小幡篤次郎(37-38歳)、福澤諭吉が提唱、日本最初の実業家社交クラブ「交詢社」創立に参画。幹事に。
1880(明治13)年
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小泉信吉(26-27歳)、実業家社交クラブ「交詢社」の設立発起人に。
1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月
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福澤諭吉(45-46歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信、伊藤博文、井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。
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小泉信吉、福澤諭吉より伊藤博文、井上馨の参議から要請された政府新聞『公布日誌』発行を引き受けたことを極秘裏に打ち明けられる。信頼厚く、「能く慶應義塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物」と評される。
1881(明治14)年
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大隈重信、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きており、大隈重信もその反対論者であり、「慶應義塾」出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・「慶應義塾」陰謀説が浮上。明治十四年の政変が起こることに。
1881(明治14)年
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福澤諭吉(45-46歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。
1881(明治14)年1月
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福澤諭吉(45-46歳)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれ、危うい立場に。「慶應義塾」の自主独立を実現するため、塾生と共に『慶應義塾維持法案』を練り、『慶應義塾仮憲法』制定。渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることに。
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『慶應義塾仮憲法』、塾長の選任について、「一、理事委員の協議を以て、現任教員中より一名を選び、之を慶應義塾々長とす。」・「一、教員、役員を定むるは、社頭、塾長の協議に任ず可し。」と定める。
1881(明治14)年1月
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浜野定四郎(35歳)、『慶應義塾仮憲法』制定後、選任による初の塾長に。「慶応義塾」初代塾長に選ばれる。
1881(明治14)年1月
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浜野定四郎(35歳)、「慶応義塾」理事委員に。
1881(明治14)年
明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓、矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。
1881(明治14)年
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「三菱商業学校」、教員の馬場辰猪・大石正巳らが自由党の結成に参加。「三菱商業学校」校舎を使い、夜間教室「明治義塾」開設。土佐熱血漢達の自由民権思想普及の場として人気を集めるも、薩長閥の政府から睨まれることに。
1882(明治15)年3月1日
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福澤諭吉(47歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、「慶應義塾」出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」
1882(明治15)年
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中上川彦次郎(27-28歳)、福澤諭吉の勧めにより、『時事新報』社長兼主筆に。
1884(明治17)年
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「明治義塾」、三菱の資金繰りが逼迫、教師の質にばらつき、政府より謀反人の巣窟とみなされるなどを理由に、廃校に。跡地に、「英吉利法律学校」と「東京英語学校」が創立された。
1887(明治20)年10月
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浜野定四郎(42歳)、「慶応義塾」会計建築長に。
1887(明治20)年
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小泉信吉(33-34歳)、慶應義塾評議員の第一会選挙で当選、「慶應義塾」塾長に。
1889(明治22)年5月
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大学部を中心に、大学科(5年)、普通学科(5年)、幼稚舎(6年)の16年の一貫教育体系を発足。大学科に政治学部(政治科)を増設。
1889(明治22)年8月
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福澤諭吉(54歳)、「慶應義塾規約」制定。
1889(明治22)年10月
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小幡篤次郎(47歳)、「慶應義塾」塾長・小泉信吉の代理として、塾長代理に。
1889(明治22)年10月
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浜野定四郎(44歳)、「慶應義塾」会計主任に。
1889(明治22)年10月 - 1902(明治35)年11月
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浜野定四郎(44-57歳)、「慶應義塾」第1期評議員に。改訂規約により、第6期任期中に辞任するまで評議員をつとめる。
1890(明治23)年
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小泉信吉(36-37歳)、「慶應義塾」に大学部を創設。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、「慶應義塾」塾長を短期辞任に追い込まれる。
1890(明治23)年1月
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「慶應義塾大学部」発足、文学科・理財科・法律科の3科を設置。
1890(明治23)年3月
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小幡篤次郎(47-48歳)、「慶應義塾」塾長に。
1892(明治25)年
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福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、福澤諭吉、森村市左衛門、長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立「伝染病研究所」設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
1893(明治26)年
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北里柴三郎(39-40歳)、日本で最初の結核専門病院「土筆ケ岡養生園」設立。結核予防と治療に尽力。
1893(明治26)年12月
「九大法律学校」、司法省が最初に「判事検事登用試験」の受験資格を与えた司法省指定学校より、関西の「関西法律学校」を除いて「帝国大学」を加えたものに由来。「東京帝国大学」・「東京法学校」・「専修学校」・「明治法律学校」・「東京専門学校」・「東京法学院」・「獨逸学協会学校専修科」・「日本法律学校」・「慶應義塾大学部」の9つを指す。
1893(明治26)年
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小幡篤次郎(50-51歳)、「慶應義塾」副社頭に。
1895(明治28)年
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渡辺洪基(46-47歳)、「慶應義塾」評議員に。
1896(明治29)年
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時事新報、ロイター通信社と独占契約締結。
1899(明治32)年3月
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北里柴三郎(46歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念の下、「伝染病研究所」を国に寄付、内務省管轄の国立「伝染病研究所」となる。所長に。
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1899(明治32)年8月
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私学として初めて、海外留学生派遣。
1901(明治34)年
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小幡篤次郎(58-59歳)、「慶應義塾」社頭に。「慶應義塾」において、福澤諭吉に次ぐ中心人物に。
1902(明治35)年
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「早稲田大学」との慶早野球戦、開始。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1905(明治38)年
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福田徳三(31-32歳)、本多熊太郎の斡旋、名取和作らの尽力により、「慶應義塾」教授に就任。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、政府は一切の相談もなく、国立「伝染病研究所」を文部省に移管、「東京帝国大学」の下部組織にすると発表。「東京帝国大学医科大学」学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、私財を投じ、新たに私立「北里研究所」設立。初代所長に。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
1917(大正6)年
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北里柴三郎(63-64歳)、福澤諭吉没後、長年の多大なる恩義に報いるため、「慶應義塾医学部」創設。初代医学部長、付属病院長に。教授陣に、ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、「北里研究所」の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。終生無給で「慶應義塾医学部」の発展に尽力。
1917(大正6)年
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北島多一(46-47歳)、「慶應義塾医学部」主事に。北里柴三郎を支える。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行
大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認めた。
1920(大正9)年
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大学令に基づき、全国諸学校に先駆けて大学認可。「慶應義塾大学」は文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学に。予科・大学院を付設。
1920(大正9)年
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三輪徳寛(60-61歳)、「慶應義塾大学医学部」講師を兼務。
1920(大正9)年
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志賀潔(48-49歳)、「慶應義塾大学医学部」教授に。
1928(昭和3)年
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北島多一(57-58歳)、「慶應義塾大学医学部」医学部長に。蛇、ハブの抗毒血清の製造に成功。
1936(昭和11)年
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時事新報、業績悪化、東京日日新聞(現在の毎日新聞)と合同、廃刊となる。
1938(昭和13)年
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藤原銀次郎(68-69歳)、私財800万円を投じ、人材育成を目指して横浜に「藤原工業大学」設立。
1944(昭和19)年8月
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藤原銀次郎(75歳)、「藤原工業大学」を「慶應義塾大学」に寄付。「慶應義塾大学工学部」として引き継がれる。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。
1949(昭和24)年4月
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学制改革、新制大学として「慶應義塾大学」発足。文学・経済学・法学・工学の4学部開設。