東京大学

加藤弘之

かとうひろゆき

1836(天保7)年6月23日/8月5日 - 1916(大正5)年2月9日

1836(天保7)年6月23日/8月5日

  • 加藤弘之、但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)に出石藩家老を務めた加藤家の加藤正照と母・錫子の長男として生まれる。幼名、土代士。

  • 加藤弘之、出石藩校「弘道館」で学ぶ。後に、「済美館」や「致遠館」でフルベッキの門弟として学ぶ。

1851(嘉永4)年

  • 佐久間象山(39-40歳)、大砲鋳造に成功、西洋砲術家としての名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功、牛痘種の導入も企図。再び江戸に移住、木挽町に「五月塾」創立。砲術・兵学を教える。勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬ら後の俊才が続々と入門。

1852(嘉永5)年

  • 加藤弘之(15-16歳)、江戸に出る。佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。

1854(安政元)年

  • 加藤弘之(17-18歳)、大木仲益(坪井為春)に入門し蘭学を学ぶ。

1856(安政3)年2月11日/3月17日 - 1857(安政元)年2月

  • 古賀謹一郎(39-40歳)、「洋学所」を「蕃書調所」に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。頭取に着任し、国内の著名な学者を招聘。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安(寺島宗則)、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六(大村益次郎)、木村軍太郎、市川斎宮、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元、中村敬輔(中村敬宇)、加藤弘之らを教授手伝​に。幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用。​

1860(万延元)年

  • 加藤弘之(23-24歳)、「蕃書調所」教授手伝に。ドイツ語を学び始める。

1861(文久元)年

  • 加藤弘之(24-25歳)、『鄰草』著す。欧米の立憲思想を紹介。

1864(元治元)年

  • 加藤弘之(27-28歳)、幕府旗本に。「開成所」教授職並に任じられる。

1868(慶応4)年1月

  • 加藤弘之(31歳)、幕府目付に。

1869(明治2)年

  • 加藤弘之(32-33歳)、明治新政府に出仕。外務大丞などに任じられる。

1869(明治2)年

  • 加藤弘之(32-33歳)、公議所に『非人穢多御廃止之儀』提出。

1870(明治3)年

  • 加藤弘之(33-34歳)、侍講に。洋書進講を担当。

1870(明治3)年

  • 加藤弘之(33-34歳)、『真政大意』著す。天賦人権論を紹介。

1872(明治5)年

  • 加藤弘之(35-36歳)、ヨハン・カスパル・ブルンチュリの『国家学』進講。

1873(明治6)年7月

  • 森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成学校」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

1873(明治6)年

  • 加藤弘之(36-37歳)、明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱える。

1874(明治7)年

  • 加藤弘之(37-38歳)、『国体新論』発表。

1877(明治10)年2月

  • 加藤弘之(40歳)、「東京開成学校」綜理就任。文部省に対し、「東京開成学校」を「開成大学校」に昇格させるべきとする意見書を提出。

1877(明治10)年4月12日

  • 東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。

1877(明治10)年

1877(明治10)年

1877(明治10)年

1879(明治12)年

  • 文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関「東京学士会院」が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、西周、福澤諭吉箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉

1881(明治14)年

  • 東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。

1881(明治14)年7月6日

  • 加藤弘之(44歳)、機構改革により新設された「東京大学」初代総理に就任。

1881(明治14)年7月14日

1882(明治15)年

  • 加藤弘之(45-46歳)、『人権新説』出版。社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こす。

1886(明治19)年1月11日

  • 加藤弘之(49歳)、元老院議官に。

1890(明治23)年5月

  • 加藤弘之(53歳)、「帝国大学」第2代総長に。

1890(明治23)年9月30日

  • 加藤弘之(54歳)、貴族院議員に勅任。

1893(明治26)年

  • 加藤弘之(56-57歳)、『強者の権利の競争』、強権的な国家主義を展開。

1893(明治26)年7月

  • 加藤弘之(56歳)、錦鶏間祗候に。

1895(明治28)年7月

  • 加藤弘之(58歳)、宮中顧問官に。

1898(明治31)年

  • 加藤弘之(61-62歳)、高等教育会議議長に。

1900(明治33)年

  • 加藤弘之(63-64歳)、男爵に叙せられる。華族に列する。

1906(明治39)年7月

  • 加藤弘之(69歳)、初代帝国学士院長に。

1906(明治39)年12月10日

  • 加藤弘之(70歳)、枢密顧問官に。

1916(大正5)年2月9日

  • 加藤弘之(79歳)、死去。享年、79歳。