医学校/大学東校

長與專齋

ながよせんさい

1838(天保9)年8月28日/10月16日 - 1902(明治35)年9月8日

1836(天保7)年2月16日/4月1日

  • 長與專齋、肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

  • 長與專齋、大村藩校「五教館」に学ぶ。

1854(安政元)年

  • 長與專齋、大村藩侍医となる。

1861(文久元)年

  • 長與專齋(22-23歳)、長崎の「医学伝習所」にて、オランダ人医師ポンペより西洋医学を学ぶ。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事、医学教育近代化の必要性を諭される。

1868(明治元)年

  • 長與專齋(29-30歳)、「長崎精得館」の医師頭取に。

  • 長與專齋、「長崎精得館」は「長崎府医学校」に、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分、学制改革を行う。

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

1871(明治4)年

  • 長與專齋(32-33歳)、岩倉使節団の一員として渡欧、ドイツやオランダの医学および衛生行政を視察。

1873(明治6)年

  • 長與專齋(34-35歳)、帰国。

1873(明治6)年9月4日

  • 福澤諭吉(38歳)、岩倉遣欧使節団に随行した長与専斎の紹介で、文部卿・木戸孝允と会談。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」。

1874(明治7)年10月3日

1874(明治7)年

  • 長與專齋(35-36歳)、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設。

1875(明治8)年

  • 長與專齋(36-37歳)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称。初代局長に就任。コレラなど伝染病の流行に対し、衛生工事を推進、また衛生思想の普及に尽力。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長與專齋が採用したもの。

 

1877(明治10)年4月12日

  • 東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。

1877(明治10)年4月13日

1877(明治10)年4月13日

1883(明治16)年

  • 長與專齋(44-45歳)、内務卿・山縣有朋と肌が合わず、衛生局の業務に支障を来したす。軍医本部次長・石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられる。

1883(明治16)年

  • 長與專齋(44-45歳)、石黒忠悳の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出す。衛生局に採用。

  • 北里柴三郎長與專齋が局長を務める、内務省衛生局に入省。

1886(明治19)年4月27日

  • 長與專齋(48歳)、元老院議官に。

1890(明治23)年9月29日

  • 長與專齋(52歳)、貴族院勅選議員に選任される。

1890(明治23)年

  • 北里柴三郎(36-37歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。

1891(明治24)年

  • 長與專齋(52-53歳)、衛生局長を退任。退任後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。

1892(明治25)年

  • 北里柴三郎(38-39歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする「東京大学」教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈し、母校「東京大学医学部」と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。

1892(明治25)年​

  • 福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。

1892(明治25)年

1892(明治25)年

  • 長與專齋(53-54歳)、衛生行政の後継者として後藤新平を衛生局長に据える。しかし、後藤新平が相馬事件に連座して失脚すると、これを見捨てる。以後は石黒忠悳が医学界における後藤新平の後ろ盾となる。

  • 長與專齋、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会を設立、会頭就任。

1902(明治35)年9月8日

  • 長與專齋(64歳)、死去。享年、64歳。