ダイガクコトハジメ - 大学年表
大学創立年
奈良時代? 平安時代初期832(天長9)年? 鎌倉時代初期? 室町時代中期1439(永享11)年?
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下野国足利荘(現在の栃木県足利市)に「足利学校」が創立される。教育の中心は儒学であったが、易学を学ぶために訪れる者も多く、また兵学、医学なども教えた。「板東の大学」・「日本最古の学校」と呼ばれる。
1177(安元3)年4月28日/6月3日
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平安時代末期、平安京内で安元の大火が起こる。「大学寮」事実上廃絶。以後、朝廷内に公式な教育機関は存在せず。
永正年間(1504年 - 1520年)から天文年間(1532年 - 1554年)
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足利学校、火災で一時的に衰微したが、第7代庠主・九華が北条氏政の保護を受けて再興。学徒3,000人とされ、事実上日本の最高学府となり、全盛期を迎える。当時の「足利学校」の様子について、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、海外にまでその名が伝えられる。
1630(寛永7)年 - 1632(寛永9)年
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林羅山(46-47歳)、将軍・徳川家光より江戸上野忍岡に土地を与えられる。1632(寛永9)年、江戸上野忍岡の地に孔子廟・私塾「弘文館」(学問所)・文庫を建て、「先聖殿」(後に忍岡聖堂と呼ばれる)と称する。私塾より多くの門人を輩出、後世の「昌平坂学問所」の起源・基礎となる。尾張藩初代藩主・徳川義直より、私邸の孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助を受け、晩年は幕府より910石を給せられる。
1790(寛政2)年 - 1797(寛政9)年
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「寛政異学の禁」により、江戸幕府の教学政策として朱子学が奨励される。林家の私塾であった「弘文館」(学問所)を江戸幕府直轄の教学機関・施設に。「昌平坂学問所(昌平黌)」創立。外部より尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。
1838(天保9)年春
1839(天保10)年
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佐久間象山(27-28歳)、江戸神田於玉ヶ池にて私塾「象山書院」創立。儒学を教える。
1842(天保13)年
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玉木文之進(31-32歳)、畳一間の私塾を開き、「松下村塾」と名付ける。少年だった甥・吉田松陰も入門。指導は非常に厳格なもので、吉田松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。親戚の乃木希典も教育を受ける。
1847(弘化4)年3月
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仁孝天皇、朝廷内の教育機関再建を目指し、京都御所日御門前に「学習所(京都学習院)」開講。女子教育に向けて、「学習所女子教科」を設ける。
1856(安政3)年2月11日/3月17日 - 1857(安政1)年2月
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古賀謹一郎(39-40歳)、「洋学所」を「蕃書調所」に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。頭取に着任し、国内の著名な学者を招聘。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安(寺島宗則)、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六(大村益次郎)、木村軍太郎、市川斎宮、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元、中村敬輔(中村敬宇)、加藤弘之らを教授手伝に。幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用。
1857(安政4)年
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吉田松陰(26-27歳)、叔父・玉木文之進が主宰する「松下村塾」の名を引き継ぎ、杉家の敷地に「松下村塾」開塾。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。
1858(安政5)年5月
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天然痘の予防及び治療を目的に、日本各地に「種痘所」が設立される。長崎の「鳴滝塾」でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学んだ伊東玄朴、大槻俊斎、戸塚静海らを中心に、蘭方医83名の出資により「お玉ヶ池種痘所」を開設。種痘の普及と西洋医学の講習を行うことを目的とする。東京大学医学部の前身。
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江戸鉄炮洲の中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。
1858(安政5)年
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福澤諭吉(22-23歳)、幕末時勢の中、中津藩より江戸出府を命じられ、「適塾」を去る。江戸鉄炮洲の中津藩邸に開かれていた「蘭学塾」の講師となるため、古川正雄(後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い、江戸へ。築地鉄砲洲にあった奥平家中屋敷に住み込み、蘭学塾「一小家塾」にて蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。「慶応義塾」の起源に。
1860(安政7)年1月18日/2月9日 - 1860(安政7)年9月27日/11月9日
万延元年遣米使節、1858(安政5)年6月19日/7月29日締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを「軍艦操練所」教授・勝海舟をはじめとする「海軍伝習所」出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。
1860(万延元)年
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福澤諭吉(25歳)、アメリカより帰国後、江戸鉄炮洲中津藩邸内にて、講義再開。しかし講義内容は従来のオランダ語ではなく、専ら英語に。蘭学塾から英学塾へと方針転換。
1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日
文久遣欧使節団、1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎、福澤諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。
1868(明治元)年
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箕作秋坪(41-42歳)、浜町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷の一角を借り、私塾「三叉学舎」を創立。漢学、数学に加えて、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語が教えられる。福沢諭吉の「慶應義塾」と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。
1867(慶応3)年12月9日/1月3日
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4)年4月
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福澤諭吉(33歳)、塾を「慶應義塾」と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は「慶應義塾」内に「紀州塾」という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
1869(明治2)年4月/5月
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柳田藤吉(30-31歳)、戊辰戦争で財を成し、社会に貢献したいと福澤諭吉・箕作麟祥に相談。私塾を起こすことを勧められ、洋学校「北門義塾」創立。この事業に賛同した三井家が、所有する早稲田の建物(元高松藩下屋敷)を提供。山東一郎・松本良順が学校を管理することに。
1869(明治2)年7月8日/8月15日
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明治新政府が官立の教育機関および教育行政官庁を構想、「大学校」設立。教育機関としては、国学・漢学の「昌平学校」、洋学の「開成所/開成学校」、西洋医学の「医学所/医学校」の3校を統合。「昌平学校」を中枢機関とする案を構想した。また同時に、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた。長官・学長に相当する大学別当に、松平春獄が就任。
1871(明治4)年7月18日/9月2日
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明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。
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「開成学校/大学南校」は「東京大学法学部・理学部・文学部」の、「医学校/大学東校」は「東京大学医学部」の直接の前身となった。「昌平学校/大学本校」は「東京大学」の源流の1つとして位置付けられるも、以後、間接的・限定的な影響力しか持ち得なかった。
1871(明治4)年8月14日/9月29日
1871(明治4)年8月14日/9月29日
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「工学寮」は当初、海外留学制度、国内技能研修制度(修技校)、技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者を育成する部局であったが、最終的に「工学寮工学校」のみの管轄となる。
1871(明治4)年9月
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
1871(明治4)年
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高島嘉右衛門(38-39歳)、スイス人カドレー、アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授、語学中心の私塾「藍謝堂(高島学校)」を横浜伊勢山下と入船町に開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに「慶応義塾」の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎、濱尾新、日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心、寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。
1872(明治5)年8月2日/9月4日公布
学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
1872(明治5)年9月
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学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に、日本初の官立教員養成機関「師範学校」創立。湯島聖堂内に、「昌平坂学問所(昌平黌)」を一部引き継ぐ形で設立される。
1872(明治5)年
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柳田藤吉(33-34歳)、「北門義塾」閉学。学舎は、柳田藤吉の理念を継承した「東京専門学校」に受け継がれる。
1873(明治6)年7月
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森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成所」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年8月
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6大学区(名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台)で官立師範学校設立。東京の「師範学校」は、「東京師範学校」と改称。師範学校の名が、教員養成機関の総称に。師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障された。優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。師範学校→「高等師範学校」→「文理科大学」というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→「帝国大学」というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。
1873(明治6)年11月4日
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官立外国語教育機関である「開成学校語学課程(英・独・仏の3科)」・「独逸学教場」・「外国語学所」を統合、「東京外国語学校」設立。翌1874年までに全国で8校の官立外国語学校が設立されたが、官立最初の語学学校となる。「語学校」とも呼ばれる。
1874(明治7)年4月
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大蔵省、お雇い外国人・A.A.シャンドの薦めにより紙幣寮銀行課の一部局として、「大蔵省銀行学局」設立。実質的に「翻訳局」を引き継ぐものとなる。日本で最初の商業教育機関と呼べる。銀行学局長に、日下義雄が就任。副長に、宇佐川秀次郎が就任。
1874(明治7)年4月10日
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板垣退助(36-37歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的に政治団体「立志社」結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う「立志学舎」創立。教員に、「慶應義塾」を卒業した江口高邦と深間内基、矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造、久米弘行、森春吉が駆けつける。「慶應義塾」と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。
1874(明治7)年
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東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、「東京開成学校」内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする「製作学教場」設立。後の「東京職工学校」の前身となる。
1874(明治7)年
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内務省、農業・牧畜について西洋式技術の導入を目的に、内務省勧業寮内藤新宿出張所に、「農事修学場」設置。あわせて、三田育種場を開設。
1875(明治8)年5月
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司法省所管の法学校、「司法省法学校」設立。麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩邸の建物を校舎に。
1875(明治8)年5月
1875(明治8)年8月
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森有礼(27-28歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉の賛同を得て、東京銀座尾張町に私塾「商法講習所」開設。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎もこれに参加。
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森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾「商法講習所」開設。
1875(明治8)年9月24日
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森有礼(28歳)、私塾「商法講習所」開設を東京会議所より、東京府知事に届出。「一橋大学」の源流に。
1875(明治8)年11月29日
1876(昭和9)年
代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立、前後より各地で試験準備のための私塾的な法律学校が開校。
1876(明治9)年
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日本最初の美術教育機関、「工部美術学校」設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。「画学科」「彫刻科」二科設置、純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。
1876(明治9)年
1876(明治9)年
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津田仙(38-39歳)、東京麻布にて、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社設立。その一環として、「学農社農学校」創立。キリスト教指導も行う。
1877(明治10)年1月
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工学寮廃止。ボアンヴィル設計による当時世界で最も優れた工業教育施設と考えられた、本館が完成。「工学寮工学校」は、「工部大学校」と改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。
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校地は「東京大学法・理・文三学部」が錦町、「東京大学医学部」が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地とで離れていた。職制や事務章程も別々に定められ、それぞれに綜理が置かれる。
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校予科」、同じく官立の「東京英語学校」と統合、「東京大学予備門(後に、第一高等中学校、第一高等学校)」設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、「東京大学法・理・文三学部」入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、「東京大学医学部」は別に予科を設ける。
1877(明治10)年
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「東京大学大学理学部」に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、「製作学教場」よりも高等の学術を教授するように。存続は不必要とみられ、「製作学教場」を閉鎖。しかし、文部省は再び低度工業教育の必要を認め、「製作学教場」の後身とも見なされる「東京職工学校」設立へ動く。
1877(明治10)年10月
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皇族・華族のための教育機関として「華族学校」を整備、神田錦町に開校。改めて「学習院」と改名。明治天皇下、「学習院」の勅額を下賜される。1886(明治17)年、宮内省管轄の官立学校に。
1878(明治11)年1月24日
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「農事修学場」、駒場野に校舎を新築、移転。「駒場農学校」に改称。アメリカ農業を教育の柱にした「札幌農学校」に対し、専らドイツ農法に範を求める。欧米の農作物を試植する「泰西農場」、在来農法の改良を期した「本邦農場」などの農場のほか、園芸・植物園、家畜病院、気象台など備えた農業の総合教育・研究機関となる。当初の敷地面積、約6万坪。内務卿・大久保利通は開会式で、「本邦初の農学校の建築にあたり、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ。」と述べる。
1878(明治11)年3月
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森下岩楠(26歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に「三菱商業学校」創立。初代校長に。教官のほとんどを「慶應義塾」の門下生で構成。「慶應義塾」の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成した。
1878(明治11)年10月25日
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学制・教育令の中で、小学校・専門学校の教育科目に「体術」・「体操」が規定されたが、具体的な教授法が確立されていなかった。「東京師範学校」も知的教科を中心とする知育に偏重、体育教員の養成が後手にまわっていた。そこで、アメリカ・アマースト大学卒業の医学士リーランドが体育担当教師として招聘され、文部省により日本最初の体育研究・教育機関「体操伝習所」創立。
1878年(明治11)年10月25日
1878(明治9)年11月
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官立の師範学校は、「東京師範学校」と「東京女子師範学校」を除き、西南戦争時の財政難により廃校に追い込まれ、文部省より府県にすべて移管される。各県が小学校教員養成を目的として独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。
1878(明治11)年
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澤山保羅(25-26歳)、成瀬仁蔵ら教会信徒有志の協力を得て、リスト教主義教育を建学の精神とする「梅花女学校」設立。牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現在の大阪教会)教会員の協力があったことから、「梅花」と名付ける。大阪で最初の女学校に。成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す。
1878(明治11)年 - 1882(明治15)年
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成瀬仁蔵(19-24歳)、澤山保羅のキリスト教主義教育を建学の精神とする「梅花女学校」設立に教会信徒有志と共に協力、主任教師に。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職に熱心であったが、伝道活動への意思強く、1882(明治15)年に卒業生を送ると教職を辞職。牧師としての活動をはじめる。
1879(明治12)年9月29日公布
教育令、学制に代わり公布。欧米の教育制度を模範に定められた学制は、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学校運営に要する地方の経済的な負担も大きく、これら事情に考慮する改正が成される。
1879(明治12)年
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文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関「東京学士会院」が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、西周、福澤諭吉、箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
1880(明治13)年
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定、「代言人規則」改正により資格試験が厳格化、本格的な法律学校が設立されるように。
1880(明治13)年9月14日
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相馬永胤(29歳)、「慶應義塾夜間法律科」を独立させる形で、「三叉学舎法律経済科」、「東京攻法館法律科」の3社を統合、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格と共に「専修学校」創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。「明治法律学校」、「東京専門学校」、「東京法学校」、「英吉利法律学校」と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、「簿記講習所」を仮校舎として利用。
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法律学を本格的に教える教育機関は、「東京大学法学部」、「司法省法学校」など極少数であった。「東京大学法学部」が英語、「司法省法学校」が仏語で教授していたのに対し、「専修学校法律科」は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学に。多くの学生を集める。
1881(明治14)年
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「東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。
1881(明治14)年5月26日
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手島精一(30-31歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続け、また文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵。
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「東京職工学校」、浅草区蔵前の浅草文庫の建物にて、新校舎建設と開学準備が行われる。「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで、蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台となる。
1881(明治14)年
明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓、矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。
1882(明治15)年6月
1882(明治15)年10月21日
1882(明治15)年10月21日
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小野梓(30歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、「東京専門学校」創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。
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官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。
1885(明治18)年8月
1885(明治18)年8月
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四谷区尾張町に、皇族・華族のための教育機関として「華族女学校」開校。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布
学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日
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学校令により、高等中学校の制度が成立。「東京大学予備門」は、「第一高等中学校」に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置するこが定められる。「第三高等中学校(京都)」、「山口高等中学校」、「第二高等中学校(仙台)」、「第四高等中学校(金沢)」、「第五高等中学校(熊本)」、「鹿児島高等中学造士館」が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。「東京大学予備門」から設立された「第一高等中学校」だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が「帝国大学」へ進学する制度に。
1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行
帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。
1886(明治19)年3月
1886(明治19)年3月
1886(明治19)年
1886年(明治19)年
1886(明治19)年
私立法律学校特別監督条規、東京府下に所在、特に教育水準が高く特別許認可を受けた「英吉利法律学校」・「専修学校」・「東京専門学校」・「東京法学校」・「明治法律学校」の5校について、「帝国大学」総長の監督下に。帝国大学特別監督学校となる(「五大法律学校」)。
1887(明治20)年9月
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高等中学校令施行に伴い、「県立千葉医学校」は官立に移管、「第一高等中学校医学部」に。「第一高等中学校」への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、「県立千葉医学」長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定した。
1887(明治20)年10月
1887(明治20)年10月4日
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伊沢修二(36歳)、文部省音楽取調掛掛長であった自身のほか、菊池大麓・外山正一・穂積陳重ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ付建議」に基づき、文部省音楽取調掛を改称して「東京音楽学校」創立。初代校長に。
1887(明治20)年10月
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渡辺洪基(39歳)、近代化の現場を支える職工育成を目的に、築地の地に日本で最古の私立の工業実業学校となる「工手学校(現在の工学院大学)」創立。
1887(明治20)年
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内閣総理大臣・伊藤博文を創立委員長に、「女子教育奨励会」設立。「日本の貴婦人に欧米諸国の貴婦人と同等なる佳良の教化及び家事の訓練を受けさせる」ことを目的に。創立委員に、渋沢栄一、岩崎弥之助、「帝国大学」教授・外山正一、「帝国大学」英語教授・ジェムス・ディクソン、聖公会司教・アレキサンダー・ショーなど、政財官界の有力者で構成。
1888(明治21)年9月11日
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「女子教育奨励会」が計画する「東京女学館」が認可を受け、開校。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。
1888(明治21)年
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伊沢修二(36-37歳)、文部省直轄の訓盲唖院を改称して設立された「東京盲唖学校」の初代校長に。
1889(明治22)年2月
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濱尾新(39歳)、「東京美術学校」開校。文部省図画取調掛委員長として、校長事務取扱に。翌年1890(明治23)年、校長に岡倉天心、副校長にフェノロサが就任。教官に、黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之、後に川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを加える。ほとんどが日本画家などの伝統的美術家であり、日本伝統美術の振興を目指す理念が具体化された形になる。
1889(明治22)年
帝国大学令、「帝国大学」について、大学院と法科・医科・工科・文科・理科に農科を加えた6科となる。
1890(明治23)年
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「東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。「帝国大学農科」再編にあたり、「帝国大学」側は一時この合併に猛反発、「帝国大学」評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。大学評議会への諮問がなかったこと、「東京農林学校」の学科水準が「帝国大学」の分科大学の程度にないという判断がなされたこと、「東京農林学校予科」の教育水準などが理由に。初代学長に、松井直吉。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする「東京大学」教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈し、母校「東京大学医学部」と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
1892(明治25)年
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福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、福澤諭吉、森村市左衛門、長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立「伝染病研究所」設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
1894(明治27)年6月25日公布
第一次高等学校令、1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、高等学校に改組することを目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。「帝国大学」に入学する者のための予科を設けることができるとしつつ、専門学校を教授することを原則とした。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。一方、制度としては従属的な扱いであった大学予科は、大いに発展。
1894(明治27)年9月11日
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第一次高等学校令により、「第一高等中学校」を「第一高等学校」に改組。卒業生の多くは「東京帝国大学」進学。政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度(全寮制)。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、「帝国大学」を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置、専門教育機関として高等学校を機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた「帝国大学」を改革することはできず、日清戦争後は「帝国大学」そのものが増設。高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強めたため、構想は実現せず。
1897(明治30)年
帝国大学令、「京都帝国大学」設置以降、「東京帝国大学」以外の帝国大学も適用対象に。
1897(明治30)年3月24日
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成瀬仁蔵(38歳)、「日本女子大学校」第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、「学習院」院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
1897(明治30)年4月22日
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第9帝国議会にて、衆議院・貴族院が外国語学校開設を建議。「高等商業学校」に「高等商業学校附属外国語学校」設置。
1899(明治32)年2月7日公布 4月1日施行
高等女学校令、従来、中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
1899(明治32)年4月4日
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1900(明治32)年7月
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津田梅子(35歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、「女子英学塾」創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。
1900(明治33)年9月1日
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大倉喜八郎(56歳)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として、私財50万円を投じて「大倉商業学校」を創設。ロンドンタイムズなどで美挙と報じられる。港区赤坂葵町(現在の港区虎ノ門)の邸宅(現在はホテルオークラ、大倉集古館が建つ)の隣接地に開校。創立委員に渋沢栄一、渡辺洪基、石黒忠悳が名を連ねる。
1901(明治34)年4月20日
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成瀬仁蔵(42-43歳)、日本で初めての組織的な女子高等教育機関「日本女子大学校」創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1903(明治36)年
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嘉悦孝(35-36歳)、日本で初めて女子を対象とした商業学校「私立女子商業学校」創立。創立にあたり、金銭面の工面に苦労。商業教育の援助を行っていた渋沢栄一を訪れ、新校舎建設に掛かる費用援助を申し入れ。「東京商業学校」の一部を借り、校長に和田垣謙三を迎える。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、政府は一切の相談もなく、国立「伝染病研究所」を文部省に移管、「東京帝国大学」の下部組織にすると発表。「東京帝国大学医科大学」学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、私財を投じ、新たに私立「北里研究所」設立。初代所長に。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行
大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとち、単科大学の成立も認めた。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行
第二次高等学校令、高等教育の拡大・改善を目的に。高等学校を「男子ノ高等普通教育ヲ完成スル」ための機関と位置付け、その内容を拡大・充実。官立のナンバースクールのみであった高等学校が、官立・私立・公立に拡大。1943(昭和18)年までに、高等学校は33校に。
1919(大正8)年8月20日
1920(大正9)年
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大学令に基づき、全国諸学校に先駆けて大学認可。「慶應義塾大学」は文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学に。予科・大学院を付設。
1920(大正9)年4月1日
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「東京高等商業学校」、高等教育拡充構想の下、「専攻部」を基礎に念願であった大学昇格を果たす。「東京商科大学」に。大学学部のほか、予科、附属商学専門部、附属商業教員養成所を設置。
1920(大正9)年
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「早稲田大学」、大学令に基づき、大学に。政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部、大学院を設置。
1921(大正10)年11月
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第二次高等学校令に基づき、官立「東京高等学校」創立。日本初の官立七年制高校で、尋常科、および文科・理科からなる高等科を設置。独特の教育制度の下、数々の傑出した人材を生み出す。「東京帝国大学」への進学率は8割に達した。初代校長に、湯原元一。
1921(大正10)年12月9日
1923(大正12)年
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「私立専修大学」、大学令により大学昇格。「専修大学」設立。
1929(昭和4)年4月1日
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「高等工業学校」、大学昇格。「東京工業大学」に。染料化学科、紡織学科、窯業学科、応用化学科、電気化学科、機械工学科、電気工学科及び建築学科の8学科と数学教室、物理学教室、物理化学教室及び分析化学教室の4教室設置。
1929(昭和4)年
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「東京高等師範学校専攻科」を母体に、官立単科大学を設立、「東京文理科大学」発足。政府や議会の審議で、教員養成を専門とする師範大学か、研究に重点を置く単科大学かについて論争。結局後者の意見が通り、文理学部のみを置く文理科大学として実現をみることに。「東京高等師範学校」は大学昇格ではなく、附設としてそのまま存続。
1935(昭和10)年4月
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「東京帝国大学農学部実科」、「東京帝国大学」より独立、「東京高等農林学校」創立。背景に、専門学校令により高等教育機関が随時拡張、全国で農林系専門学校が相次いで設立され、実科の廃止論があがっていた。「東京帝国大学農学部」が旧制「第一高等学校」との敷地交換により駒場から本郷に移転する際、付属実科を本郷に移転せず分離独立という手段で存続。
1938(昭和13)年
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藤原銀次郎(68-69歳)、私財800万円を投じ、人材育成を目指して横浜に「藤原工業大学」設立。
1943(昭和18)年
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範教育令改正、師範学校はすべて官立に移管。専門学校と同格の教育機関に昇格。新しく、青年師範学校設置。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。
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教員養成について、連合国軍最高司令官総司令部が米国にならい、大学で行うよう指導。また、師範学校側も大学へ昇格する道が開けたことより、師範学校は消滅。各地の師範学校は、アメリカの「リベラルアーツカレッジ」などを手本に、旧制諸学校を包有した新制大学の教育学部・学芸学部として再出発することに。
1947(昭和22)年
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根拠法である学習院学制・女子学習院学制、廃止。「学習院」と「女子学習院」は再度合併。「財団法人学習院」、発足。宮内省管轄下の官立学校より、私立学校に改められる。
1948(昭和23)年3月25日
1948(昭和23)年
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学制改革により、新制大学として「日本女子大学」設立。家政学部・文学部設置。
1949(昭和24)年2月
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「工学院工業専門学校」、大学昇格、「工学院大学」設立。
1949(昭和24)年4月
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学制改革、新制大学として「慶應義塾大学」発足。文学・経済学・法学・工学の4学部開設。
1949(昭和24)年4月1日
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「大倉経済専門学校」、大学へ昇格し「東京経済大学」に。在校生がアルバイトをして募金するなど、全校を挙げて旧制専門学校から新制大学への昇格運動に取り組む。
1949(昭和24)年4月
1949(昭和24)年5月31日公布・施行
国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、新制「東京大学」設立。「第一高等学校」と「東京高等学校高等科」を併合、「東京大学教養学部」設置。「第一高等学校」は、「東京大学第一高等学校」に。翌1950(昭和25)年3月24に廃止。「東京大学教養学部」に内包される。
1949(昭和24)年5月31日
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学制改革に伴い、新制「一橋大学」設立。「東京商科大学」を内包。商業教員養成所廃止。
1949(昭和24)年5月
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「東京美術学校」、「東京音楽学校」、学制改革により発足した新制「東京藝術大学」に包括される。
1949(昭和24)年5月31日
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学制改革により、「東京文理科大学」と「東京高等師範学校」は、教員養成を中心とする「東京農業教育専門学校」・「東京体育専門学校」と合同し、新制大学を設立することに。学内抗争がいっそう複雑化。教員養成の最高機関構想を掲げる「東京高等師範学校」・「東京農業教育専門学校」・「東京体育専門学校」により、名称を「東京教育大学」とすることに成功するが、大学運営は「東京文理科大学」の教授陣によって独占されることに。内部対立を抱えたまま多難なスタートを切ることに。
1949(昭和24)年
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「東京教育大学」発足と共に、「東京高等師範学校体育科」は「東京教育大学体育学部」に。「筑波大学体育専門学群」の源流となる。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、「お茶の水女子大学」新設。「東京女子高等師範学校」を内包。
1949(昭和24)年5月31日
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新制「東京外国語大学」設立。「東京外事専門学校」を内包。
1949(昭和24)年5月31日
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、「千葉医科大学」を主な母体に「千葉大学」設立。「東京工業専門学校」は「千葉大学」に内包され、「千葉大学東京工業専門学校」に。
1964(昭和39)年
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「梅花女子大学」設立。文学部・日本文学科・英米文学科。
1949(昭和24)年5月31日
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学制改革により、「東京農工大学」設立。「東京農林専門学校」と「東京繊維専門学校」を内包。
1962(昭和37)年
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「北里研究所」、創立50周年記念事業として、学校法人北里学園を設立。「北里大学衛生学部(化学科・衛生技術学科)」設立。
1973(昭和48)年10月
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1970(昭和45)年成立の筑波研究学園都市建設法および1973(昭和48)年改正の国立学校設置法により、「東京教育大学」を母体に、新構想大学として「筑波大学」設置。
2001(平成13)年
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「嘉悦大学」設立。「嘉悦女子短期大学」を「嘉悦大学短期大学部」に改称。
2002(平成14)年
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「東京女学館大学」設立、国際教養学部のみの4年制女子大学に。