ダイガクコトハジメ - 適塾(適々斎塾)

適塾(適々斎塾)

 

創立  : 1838(天保9)年春

創立者 : 緒方洪庵

​前史  :

適塾(適々斎塾) → 仮医学校 → 大阪医学校 → 大阪大学医学部の前身に

​「適塾」年表

1838(天保9)年春

  • 緒方洪庵(27歳)、大坂に帰り、瓦町(現在の大阪市中央区瓦町)で医業を開業。同時に、蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を開く。

  • 緒方洪庵、「適塾」の教育について、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針とする。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法『ガランマチカ』、次いで文章論『セインタキス』を学んだ後に原書の会読に加わる。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかない『ヅーフ』の蘭和辞書を奪い合うようにして勉強。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものとなる。

  • 緒方洪庵、「適塾」の教育について、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいた。各自の自由な学問研究を伸ばす学風があった。

1844(天保15年/弘化元)年以降

  • 「適塾」入門者署名帳「姓名録」に記載されただけで636人、このほかに通いの塾生や1843年以前の門人等を含めると、資料で判明している限りでも、子弟は1000名を超えるものと推定される。

1845(弘化2)年

  • 緒方洪庵(34-35歳)、名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増えた為、瓦町の塾では手狭に。過書町(現在の大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入、「適塾」移転。

1854(安政元)年

1855(安政2)年

  • 福澤諭吉(19-20歳)、山本家を紹介した奥平壱岐、その実家・中津藩家老格奥平家と不仲に。中津へ呼び戻されそうになるも、帰藩の意なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行。大坂堂島浜の豊前国中津藩蔵屋敷に務める兄・福澤三之助を訪ねる。「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶことに。中津藩蔵屋敷に居候しながら、足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾(適々斎塾)」で学ぶことに。

  • 福澤諭吉、腸チフスを患う。緒方洪庵より「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」と告げられ、緒方洪庵の朋友・内藤数馬から処置を施される。体力が回復すると、一時帰藩。

1856(安政3)年

  • 福澤諭吉(20-21歳)、再び大坂へ。兄・福澤三之助が死去、福澤家の家督を継ぐことに。大坂遊学を諦めきれず、父・福澤百助の蔵書や家財道具を売り払い、借金を完済。母・於順以外の親類から反対されるも、これを押し切り、「適塾」で学ぶ。学費を払う経済力はなく、緒方洪庵の好意により、奥平壱岐から借り受け密かに筆写した築城学の教科書『C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年』を翻訳するという名目で、「適塾」の食客として学ぶことに。

1857(安政4)年

  • 福澤諭吉(21-22歳)、最年少で「適塾」10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。塾頭後任に、長與專齋を指名。

  • 福澤諭吉、工芸技術にも熱心に。化学道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶり、危うく怪我をしそうになる。

  • 福澤諭吉、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した物理書『ワンダーベルツ』を写本、元素を配列、そこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則)を初めて知ることに。電気の新説を知り、発電を試みる。ほかに、昆布や荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などを行う。

  • 江戸鉄炮洲の中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。

1858(安政5)年

  • 福澤諭吉(22-23歳)、幕末時勢の中、中津藩より江戸出府を命じられ、「適塾」を去る。江戸鉄炮洲の中津藩邸に開かれていた「蘭学塾」の講師となるため、古川正雄(後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い、江戸へ。築地鉄砲洲にあった奥平家中屋敷に住み込み、蘭学塾「一小家塾」にて蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。「慶応義塾」の起源に。

1860(万延元)年

  • 緒方洪庵(49-50歳)、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入、英語学習も開始。自身にとどまらず、門人や息子にも英語を学ばせる。柔軟な思考は最後まで衰えなかった。

1862(文久2)年8月

1863(文久3)年6月10日/7月25日

  • 緒方洪庵(54歳)、江戸の「医学所」頭取役宅で突然喀血、窒息により死去。享年54歳。終生、天然痘治療に貢献、日本の近代医学の祖といわれる。

1868(慶応4年/明治元)年

  • 「適塾」閉鎖

1869(明治2)年

  • 大阪府知事・後藤象二郎、参与・小松清廉の尽力により、東成郡東高津村八丁目寺町(現在の大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院、および「適塾」元塾生らを中心とする「仮医学校」を設立。院長は緒方洪庵の次男・緒方惟準。主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招く。一般の病気治療と医師に対する新治術伝習を行う。