top of page

ダイガクコトハジメ - 大倉喜八郎

大倉喜八郎

出身校

  • 積善堂

関連する学校・組織(前史)

関連する学校・組織(現代)

関連する教育者

参考情報

参考文献・書籍

 

年表 | 動画

大学事始Youtube公式チャンネル [外部]

  • 1837(天保8)年10月23日(旧暦・9月24日) 大倉喜八郎(1歳)、越後国蒲原郡新発田町(現・新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる。幼名は鶴吉。商いを稼業とし、祖父・卯一郎(2代目定七)の代より薬種・砂糖・錦・塩を扱い、大きな利益を得、質店を始める。この頃より藩侯への拝謁を許される。父・千之助(3代目定七)では、天保の大飢饉で米倉を開き、窮民に施すなどの経緯から藩主から検断役を命じられる。

  • 大倉喜八郎(8歳)、家業の商いを手伝う傍ら、四書五経を学ぶ。

  • 大倉喜八郎(12歳)、丹羽伯弘の私塾・積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。陽明学の「知行合一」の行動主義的な規範に影響を受けたといわれる。

  • 1851(嘉永4)年 大倉喜八郎(15歳)、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋営業差止めに。憤慨、江戸に出ることを決意。狂歌の師・檜園梅明を訪ね、檜垣の社中に入る。

  • 大倉喜八郎、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝う。後に中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公。丁稚時代、安田善次郎と親交。「善公」・「喜八」と呼び合う仲に。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1857(安政4)年 大倉喜八郎(21歳)、奉公中に貯めた100両を元手に独立、乾物店大倉屋を開業。

  • 大倉喜八郎(23歳)、尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。

  • 1866(慶応2)年 大倉喜八郎(30歳)、横浜で黒船を見たことを契機に。乾物店大倉屋を廃業。

  • 1866(慶応2)年10月 大倉喜八郎(30歳)、小泉屋鉄砲店に見習いに入る。約4ヶ月間、鉄砲商いを学ぶ。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1867(慶応3)年 大倉喜八郎(31歳)、神田和泉橋通りに鉄砲店大倉屋開業。和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋を名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出す。幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大。戊辰戦争を目前に控えた時期、洋式兵器の注文は官軍・幕府軍の双方から舞い込む。

  • 大倉喜八郎、鉄砲店の店頭に鉄砲現物を置く資金なく。注文を受けてから横浜居留地に出向き、百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入。良品を得意先へ早いかつ安く納品、厚い信用を博す。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年7月3日(旧暦・5月14日) 大倉喜八郎(32歳)、官軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜、官軍に鉄砲を売っていたことで彰義隊に連行される。「官軍は現金払いなので売ったまでです」と商売の理を説き、九死に一生を得る。こうした体験により、官軍御用達となっていく。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大倉喜八郎(32歳)、新政府軍の兵器糧食用達を命じられる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大倉喜八郎(32歳)、有栖川宮熾仁親王御用達に。奥州征討軍の輜重にあたる。

  • 1869(明治2)年12月7日(旧暦・11月5日) 大隈重信(32歳)伊藤博文と共に日本発の鉄道敷設を計画。右大臣三条実美の東京邸宅にて、岩倉具視・沢宣嘉・大隈重信伊藤博文の4者がパークスと非公式に会談、鉄道計画を相談。事前にパークスと協議した脚本通りに進行。岩倉具視・沢宣嘉の賛同を得る。12月12日(旧暦・11月10日)、鉄道敷設が正式に廟議決定。

  • 1870(明治3)年 高島嘉右衛門(39歳)伊藤博文大隈重信に京浜間鉄道敷設の必要性を説明。後に、大隈重信より鉄道敷設事業参加の打診があり、線路短縮のために横浜港埋め立て(現・西区野毛町〜神奈川区青木町)を実行。埋め立て開発者は鉄道線路を除きその土地を永代拝領するという条件が新政府から出されていたが、それを政府に献上、その偉業を称えて高島町と名づけられる。

  • 1871(明治4)年3月 大倉喜八郎(35歳)、新橋駅建設工事の一部を請け負う。同じ頃、高島嘉右衛門らと共に横浜水道会社を設立、建設工事に着工。

  • 1871(明治4)年7月 - 大倉喜八郎(35歳)、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。

  • 1871(明治4)年 大倉喜八郎(35歳)、台湾出兵の征討都督府陸軍用達に。

  • 1871(明治4)年 大倉喜八郎(35歳)、横浜弁天通に海外貿易商社開設。欧米の文物の輸入から服装の一変を予見、日本橋本町に日本初の洋服裁縫店開設。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1872(明治5)年3月 大倉喜八郎(36歳)、銀座復興建設工事の一部を請け負う。

  • 1872(明治5)年 - 大倉喜八郎(36歳)、欧米の商業を学ぶため、米国から欧州まで1年以上かけて外遊。ロンドン・ローマに滞在中、岩倉遣欧使節団大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らと殖産興業を話し合う。この出会いにより運命を大きく変わる。

  • 1873(明治6)年 大倉喜八郎(37歳)、銀座に大倉組商会を設立。貿易および用達事業に乗り出し、後に台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争の軍需物資調達で巨利を得る。

  • 1874(明治7)年 大倉喜八郎(38歳)、大倉組商会ロンドン支店設立。外国貿易の尖端を切る。

  • 1875(明治8)年 大倉喜八郎(39歳)、東京会議所の肝煎となる。この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1875(明治8)年 渋沢栄一(36歳)、東京府知事・楠本正隆の要請で東京会議所の肝煎となる。同じく大倉喜八郎も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1876(明治9)年 大倉喜八郎(40歳)、大久保利通とロンドンで会見。要請・協議した被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(後に千住製絨所)開設。払い下げは遅れる。

  • 1877(明治10)年 大倉喜八郎(41歳)、西南戦争で征討軍御用達に。

  • 1878(明治11)年 渋沢栄一(39歳)、大蔵卿・大隈重信より「日本にも商人が集会して相談する機関をつくっては」と提案を受け、大倉喜八郎と二人で発起人となり東京商法会議所(後に東京商業会議所、現・東京商工会議所)創立。会頭に。

  • 1881(明治14)年 大倉喜八郎(45歳)、鹿鳴館建設工事に着工。土木事業進出。

  • 大倉喜八郎、日本初の私鉄である東京馬車鉄道をはじめ、九州鉄道・山形鉄道・北陸鉄道・成田鉄道、日本国外では台湾鉄道・京釜鉄道・金城鉄道・京仁鉄道など日本国内外で数多くの鉄道企業へ参加・出資などを行う。

  • 1881(明治14)年 大倉喜八郎(45歳)、藤田伝三郎ら共に発起人に、大阪紡績会社創立。

  • 1882(明治15)年3月 大倉喜八郎(46歳)、矢島作郎・蜂須賀茂韶と共に、日本初の電力会社・東京電燈創立。宣伝の一環として、銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火。驚嘆した市民が毎夜見学に押しかける。​

  • 大倉喜八郎、東京瓦斯・京都織物会社・日本製茶・東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ね、日本の近代化に尽力。

  • 1887(明治20)年 大倉喜八郎(51歳)、藤田伝三郎の藤田組と大倉組の土木部門を合併、日本土木会社(大成建設の源流)設立。資本力・技術力ともに高く、帝国ホテル・東京電燈・日本銀行・歌舞伎座・碓氷トンネルなど建造物を請け負う。

  • 1887(明治20)年 大倉喜八郎(51歳)、帝国ホテル創立。​

  • 1887(明治20)年 渋沢栄一(48歳)、東京ホテル(現・帝国ホテル)創立。理事長に。

  • 1893(明治26)年 大倉喜八郎(57歳)、日本土木会社は5年半で解散。建設部門の大倉土木組(現・大成建設)と、商業・工業部門の大倉組に分離。

  • 1894(明治27)年 大倉喜八郎(58歳)、日清戦争で陸軍御用達に。

  • 1899(明治32)年 大倉喜八郎(63歳)、韓国善隣商業高等学校創立。

  • 1900(明治33)年9月1日 大倉喜八郎(64歳)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として、私財50万円を投じ大倉商業学校(現・東京経済大学)創立。ロンドンタイムズなどで美挙と報じられる。港区赤坂葵町(現・港区虎ノ門)の邸宅(現在はホテルオークラ・大倉集古館が建つ)の隣接地に開校。

  • 1900(明治33)年9月1日 石黒忠悳(56歳)、古くから交遊があった大倉喜八郎が私財を投じて創立した大倉商業学校の創立委員に。理事兼督長に。

  • 1902(明治35)年 大倉喜八郎(66歳)、日本製靴(現・リーガルコーポレーション)設立に関わる。

  • 1904(明治37)年 大倉喜八郎(68歳)、日露戦争で軍用達に。朝鮮龍巌浦に大倉組製材所設立。

  • 1906(明治39)年 大倉喜八郎(70歳)、ビール3社、大阪麦酒・日本麦酒・札幌麦酒を合併、大日本麦酒(アサヒビール・サッポロビールの前身)設立。

  • 1907(明治40)年 大倉喜八郎(71歳)、日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)・日本皮革(現・ニッピ)・日本化学工業・帝国製麻(現・帝国繊維)・東海紙料(現・東海パルプ)設立。

  • 1908(明治41)年 大倉喜八郎(72歳)、南満州に日清の合弁会社、本渓湖煤鉄公司設立。

  • 1910(明治43)年 大倉喜八郎(74歳)、日本化学工業設立。​

  • 1911(明治44)年 大倉喜八郎(75歳)、商事・工業・土木部門を営む大倉組設立。

  • 1917(大正6)年 - 1918(大正7)年 大倉喜八郎(81歳)、大倉組を大倉工業・大倉土木組(現・大成建設)に分離。翌年、大倉商事と改称。大倉組をコンツェルン化。

  • 1917(大正6)年 大倉喜八郎(81歳)、大倉集古館設立。​

  • 1920(大正9)年 大倉喜八郎(84歳)、日本無線電信電話設立。​

  • 1923(大正12)年 大倉喜八郎(87歳)、関東大震災、この被害を受けた多くの人を見て、保険事業の必要性を感じる。

  • 1927(昭和2)年 大倉喜八郎(91歳)、日清火災海上保険を買収、大倉火災海上保険(現・千代田海上火災保険、あいおいニッセイ同和損害保険)設立。​

  • 1927(昭和2)年1月5日 大倉喜八郎(91歳)、隠居。嗣子・大倉喜七郎が家督継承。

  • 1928(昭和3)年4月22日 大倉喜八郎(92歳)、死去。享年92歳。

大倉喜八郎

​おおくらきはちろう

1837(天保8)年10月23日(旧暦・9月24日) - 1928(昭和3)年4月22日

大倉財閥創立・初代総帥、工手学校(現・工学院大学)創立協力、大倉商業学校(現・東京経済大学)創立、韓国善隣商業高等学校創立、東京商法会議所(現・東京商工会議所)創立、「政商」

bottom of page