一橋大学
福田徳三
ふくだとくぞう
1874(明治7)年12月2日 - 1930(昭和5)年5月8日
1874(明治7)年12月2日
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福田徳三、東京神田に生まれる。
1886(明治6)年
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福田徳三(12歳)、母がクリスチャンであり、洗礼を受ける。
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福田徳三、「高等商業学校」在学中、東京の貧民窟での伝道活動に参加。
1894(明治27)年
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福田徳三(20-21歳)、「高等商業学校」卒業。
1894(明治27)年
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福田徳三(20-21歳)、先輩の關一と共に、「神戸商業学校」の教諭に。
1895(明治28)年
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福田徳三(21-22歳)、「神戸商業学校」教諭を辞職。「高等商業学校」研究科入学。
1896(明治29)年
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福田徳三(22-23歳)、「高等商業学校」研究科卒業。
1896(明治29)年
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福田徳三(22-23歳)、「高等商業学校」講師に。
1898(明治31)年
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福田徳三(24-25歳)、文部省に任じられ、ドイツのライプツィヒ大学、ミュンヘン大学に留学。カール・ビュッヒャーやルヨ・ブレンターノに師事。
1900(明治33)年1月-2月
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福田徳三(26歳)、ベルリンで留学中の關一と再会。親密に交流。
1900(明治33)年
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福田徳三(26-27歳)、ミュンヘン大学で博士号取得。
1900(明治33)年
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福田徳三(26-27歳)、「高等商業学校」教授に。
1901(明治34)年1月
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福田徳三(27歳)、欧州留学中の「高等商業学校」教授たち(石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・津村秀松・關一・志田鉀太郎)とベルリンにおいて「商業大学の必要」を建議。「高等商業学校」の大学昇格運動を開始。
1903(明治36)年
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福田徳三(29-30歳)、前年に起こった青森県での大凶作で飢饉、その原因を考察するため、青森に向かう。「農村に貨幣経済が浸透しておらず、農家が営利的な精神を持たないからだ。」と結論付ける。
1904(明治37)年
1905(明治38)年
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福田徳三(31-32歳)、休職中、美濃部達吉の推薦により「東京帝国大学法科大学」に論文を提出、法学博士取得。
1905(明治38)年
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福田徳三(31-32歳)、本多熊太郎の斡旋、名取和作らの尽力により、「慶應義塾」教授に就任。
1906(明治39)年
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福田徳三(32-33歳)、休職中に満期となり、「東京高等商業学校」退官。
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福田徳三、無給のため、小田原の左右田喜一郎別宅に住む。高橋作衛、坂田重次郎、本多熊太郎、佐藤尚武の斡旋で、外務省の翻訳の仕事を行い生活。後に駿河台に下宿。
1918(大正7)年
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福田徳三(44-45歳)、三浦新七や左右田喜一郎らの斡旋で、「東京高等商業学校」教授に復帰。
1920(大正9)年4月1日
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「東京高等商業学校」、高等教育拡充構想の下、「専攻部」を基礎に、念願であった大学昇格を果たす。「東京商科大学」に。大学学部のほか、予科、附属商学専門部、附属商業教員養成所を設置。
1920(大正9)年
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福田徳三(46-47歳)、「東京高等商業学校」の大学昇格に伴い、「東京商科大学」教授に就任。
1922(大正11)年4月7日
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福田徳三(48歳)、帝国学士院会員に。
1923(大正12)年
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福田徳三(48歳)、内務省社会局参与に就任。
1923(大正12)年9月-
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福田徳三(48-49歳)、関東大震災、震災直後に「東京商科大学」の学生達を引き連れ、失業率の調査を1万324世帯(約3万6000人)を対象に8日間かけて行う。その結果を基に、東京全体の失業率を推計、国や東京市に対して復職のきめ細やかな支援の必要を訴える。
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福田徳三、著書『営生機会の復興を急げ』で、「復興事業の第一は、人間の復興でなければならない」と関東大震災を具体例として挙げ、以前から提唱していた生存権の必要性を唱える。
大正デモクラシー期(1910年代-1920年代)
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福田徳三(48歳)、吉野作造と共に「黎明会」を組織。民本主義の啓蒙に務める。第一次世界大戦後はマルクス主義に対し批判的立場から、民本主義、自由主義に立ち、政府による社会・労働問題の解決を主張。河上肇と論争。日本における福祉国家論の先駆者とされる。
1928(昭和3年)年
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福田徳三(54-55歳)、黒田清輝に次ぎ、日本人として2人目のフランス学士院文科部外国会員に。レジオンドヌール勲章受章。
1930(昭和5)年5月8日
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福田徳三(56歳)、死去。享年56歳。