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ダイガクコトハジメ - 開成学校/大学南校

開成学校/大学南校

 

創立  : 1856(安政3)年2月11日/3月17日​

創立者 : 古賀謹一郎

​前史  :

国学・漢学の昌平学校、洋学の開成所/開成学校、西洋医学の医学所/医学校の3校を統合 → 大学校(大学)東京大学の前身、文部省の前身

天文方蛮(蕃)書和解御用 → 洋学所 → 蕃書調所 → 洋書調所 → 開成所 → 開成学校 → 大学校(大学)/大学南校 → 南校 → 第一大学区第一番中学校 → 開成学校 → 東京開成学校 → 東京開成学校本科が東京大学法学部・理学部・文学部

開成学校語学課程(英・独・仏)・独逸学教場・外国語学所を統合、東京外国語学校(旧外語) → ​東京外国語学校英語科が東京英語学校として独立 → 東京外国語学校(旧外語)の​英・仏・独3語科が東京大学予備門に合併、英・仏・独以外の語学科が東京商業学校に合併 → 東京外国語学校(旧外語)、廃校

東京開成学校予科 → ​東京英語学校と統合、東京大学予備門に → 東京外国語学校英・仏・独3語学科を合併 → 第一高等中学校 → 第一高等学校 → 東京大学教養学部

東京開成学校製作学教場 → 東京職工学校帝国大学付属学校に移管も、再独立 → 東京工業学校 → 東京高等工業学校 → 東京工業大学

​「開成学校/大学南校」年表

1811(文化8)年

  • 江戸幕府の編暦・測量を司る天文方内に、高橋景保の提唱で、蘭書を中心に翻訳する機関「蛮(蕃)書和解御用」(蛮(蕃)書和解御用掛とも呼ばれる)を設置。大槻玄沢、宇田川榕菴、青地林宗など、優秀な蘭学者が翻訳官に任命される。

1828(文政11)年9月

  • シーボルト事件。オランダ商館付医師・シーボルトの帰国直前、日本国外への持ち出しが禁じられていた日本地図が所持品の中から発見され、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか10数名が処分された。以後、「蛮(蕃)書和解御用」は山路諧孝・山路彰常の父子に引き継がれる。

1854(嘉永7/安政元)年 - 1855(安政2)

  • 古賀謹一郎(37-39歳)、従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱く。度々、老中阿部正弘に対し建白書を提出。「洋学所」設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求める。

1855(安政2)年9月

  • 古賀謹一郎(38歳)1853(嘉永6)年の黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の「天文台蛮書和解御用掛」を拡充、「洋学所」開設。老中阿部正弘より直に、洋学所頭取を任命される。蘭書翻訳・教育機関を構想、勝麟太郎らと共に草案を作成。「蕃書調所」設立案を提出。

1856(安政3)年2月11日/3月17日 - 1857(安政元)年2月

  • 古賀謹一郎(39-40歳)、「洋学所」を「蕃書調所」に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。頭取に着任し、国内の著名な学者を招聘。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安(寺島宗則)、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六(大村益次郎)、木村軍太郎、市川斎宮、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元、中村敬輔(中村敬宇)、加藤弘之らを教授手伝​に。幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用。​

  • 幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は降盛、書籍は次第に充実、自然科学部門も置かれた。

  • 古賀謹一郎、入獄中であった堀達之助の才能を惜しむ。便宜を図って出獄させ、日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせる。

1858(安政5)年

  • 幕臣の子弟に限らず、藩士の子弟の入学も認めるように。

1859(安政6)年

  • 教授手伝​に、坪井信良、赤沢寛堂、箕作秋坪が加わる。

1859(安政6)年

  • 福澤諭吉(23-24歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。「蘭学塾」が英学塾に転身する契機に。

  • 福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。「蕃書調所」へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、「蕃書調所」の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。

1860(万延元)年

1860(万延元)年

1862(文久2)年5月

  • 古賀謹一郎(45歳)、御留守居番に就任。同時に、「蕃書調所」頭取を解任される。原因は、不明。以後4年間失職、不遇の内に過ごす。

1862(文久2)年5月18日/6月15日

  • 「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、「洋書調所」と改称。​

1862(文久2)年11月14日/1月3日

  • 江戸幕府、文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した「学問所奉行」設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、「昌平坂学問所」および「洋書調所」の監督を行なった。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。「洋書調所」は「昌平坂学問所」と同格の幕府官立学校となった。

1862(文久2)年

  • 一ツ橋門外「護持院原」(現在の神田錦町)の広大な校地に移転。後に「開成所/開成学校」・「東京大学法理文三学部」に継承される。

1863(文久3)年8月29日/10月11日

  • 「開成所」と改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。

1864(元治元)年

1864(文久4/元治元)年

1864(文久4/元治元)年

  • 杉亨二(35-36歳)、「開成所」教授に。洋書翻訳に従事している際、バイエルン王国における識字率についての記述に触れたことが、統計学と関わるきっかけに。

1866(慶応2)年

  • 古賀謹一郎、入獄中であった堀達之助の才能を惜しむ。便宜を図って出獄させ、日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせる。「開成所」より出版。

1867(慶応3)年

1867(慶応3)年

1868(慶応4)年6月13日/8月1日

  • 幕府解体により一時閉鎖されたが、明治新政府の布告により、「医学所」と共に新政府に接収される。

1868(明治元)年9月12日/10月27日

  • 官立「開成学校」として再興。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

1868(明治元)年12月10日

1869(明治2)年7月8日/8月15日

  • 明治新政府が官立の教育機関および教育行政官庁を構想、大学校」設立。教育機関としては、国学・漢学の昌平学校」、洋学の「開成所/開成学校」、西洋医学の「医学所/医学校」の3校を統合。「昌平学校」を中枢機関とする案を構想した。また同時に、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた。長官・学長に相当する大学別当に、松平春獄が就任。

1869(明治2)年12月17日/1月18日

  • 「大学校」を「大学」と改称。「昌平学校」を「大学本校」に、大学本校の南に所在していた「開成学校」は「大学南校(だいがくなんこう)」、東に所在していた「医学校」は「大学東校(だいがくとうこう)」と改称された。

1870(明治3)年7月12日/8月8日 - 1871(明治4)年

  • 大学」内部における洋学派と国学・漢学派の対立が激化。政府は「昌平学校/大学本校」を中枢機関とする案を早々に断念。当分休校となり、そのまま廃校となった。これにより、「昌平坂学問所(昌平黌)」は林羅山の私塾以来240年、学問所となって以来75年の歴史に幕を閉じた。

1870(明治3)年8月

1871(明治4)年7月18日/9月2日

  • 明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。

  • 大学」休止・廃校により、「大学南校」と「大学東校」が独立。この一連の過程で、政府において洋学中心による「東京大学」創立の方針が固まる。次第に、洋学者が国学者・漢学者を圧倒するようになる。

  • 富国強兵・日本の近代化を目的に、優秀な人物として推薦を受けた貢進生を全国から集める。御雇い外国人から英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。貢進生の中から更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させた。

1871(明治4)年7月21日/9月5日

  • 文部省管轄に。「大学南校」は「南校」と改称。

1871(明治4)年9月25日/11月7日

  • 文部省により一時閉鎖。貢進生制度廃止など改革。翌10月に再開。結果、外国人教師による普通科教育に重点をおく機関となったが、そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1871(明治4)年9月

  • 司法省に、法律実務の専門家を養成するための教育機関「明法寮」創立。「大学南校」より優秀な生徒を引き抜き、フランス式の法曹教育を施す。

1872(明治5)年4月

1872(明治5)年4月

1872(明治5)年8月2日/9月4日公布

学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

1872(明治5)年8月2日/9月4日

  • 「学制」公布により、学制における「中学校」へと改変。「第一大学区第一番中学校」と改称。外国語による「普通科」の課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

1872(明治5)年

1873(明治6)年4月10日

  • 学制における「専門学校」へと改変。再び、「(第一大学区)開成学校」へ改称。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。

1873(明治6)年5月

1873(明治6)年7月

  • 森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成学校」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

1873(明治6)年8月

  • 従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。

1873(明治6)年11月

  • 学制二編追加により、「語学課程」(普通科)が「東京外国語学校」として分離独立。

1873(明治6)年11月4日

  • 官立外国語教育機関である「開成学校語学課程(英・独・仏の3科)」・「独逸学教場」・「外国語学所」を統合、「東京外国語学校」設立。翌1874年までに全国で8校の官立外国語学校が設立されたが、官立最初の語学学校となる。「語学校」とも呼ばれる。

  • 東京外国語学校」、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置。後に英語科が分離、朝鮮語科が増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。

1873(明治6)年11月

1873(明治6)年末

  • 「東京外国語学校」、「開成学校」が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、「東京外国語学校英語科」を「東京英語学校」として独立。​​

1873(明治6)年

  • 九鬼隆一(20-21歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省のこの方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。留学生の中には井上毅、井上和郎などもおり、強い反発を受けたが、中江篤介の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができた。

1874(明治7)年3月

1874(明治7)年5月

  • 「東京開成学校」に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の「本科」に再編される。加えて、修業年限3年の「予科」が設けられる。

1874(明治7)年

  • 正木退蔵(27-28歳)、帰国。「開成学校」教授補に。教授として招聘されたアトキンソンを補佐、化学を講義。

1874(明治7)年

  • 東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、「東京開成学校」内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする「製作学教場」設立。後の「東京職工学校」の前身となる。

1874(明治7)年

1875(明治8)年末

1875(明治8)年

  • 本科生・予科生から11名選抜、文部省派遣による第一回海外留学生となる。

1875(明治8)年

  • 目賀田種太郎(21-22歳)文部省の留学生監督となり、「東京開成学校」の生徒9人(鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴二郎、南部球吾)を引き連れて再渡米。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身も法律を学ぶ。

1875(明治8)年

  • 岡倉天心(11-12歳)、「東京開成学校」入学。政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことより、講師アーネスト・フェノロサの助手に。フェノロサの美術品収集を手伝う。

1876(明治9)年6月

  • 正木退蔵(29歳)、「東京開成学校」のイギリス留学生監督として、穂積陳重、岡村輝彦、向坂兌、桜井錠二、杉浦重剛、関谷清景、増田礼作、谷口直貞、山口半六、沖野忠雄の10名を引率、アメリカ経由で再びロンドンに渡る。文部省に留学生の就学状況を報告。

1876(明治9)年9月3日

  • 手島精一(26歳)、「製作学教場」事務取締を兼務。はじめて、工業教育にあたることに。​

1876(明治9)年

1877(明治10)年2月

  • 加藤弘之(40歳)、「東京開成学校」綜理就任。文部省に対し、「東京開成学校」を「開成大学校」に昇格させるべきとする意見書を提出。

1877(明治10)年4月12日

  • 東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。

1877(明治10)年4月12日

1877(明治10)年

1877(明治10)年

1877(明治10)年

  • 東京大学理学部」に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、「製作学教場」よりも高等の学術を教授するように。存続は不必要とみられ、「製作学教場」を閉鎖。しかし、文部省は再び低度工業教育の必要を認め、「製作学教場」の後身とも見なされる「東京職工学校」設立へ動く。

1881(明治14)年5月26日

  • 手島精一(30-31歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続け、また文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵

1881(明治14)年

  • 東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。

1881(明治14)年7月6日

1881(明治14)年7月14日

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