大学年表
- 1850年代
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日本における近世学校の発端は、室町時代に認められる。
奈良時代? 平安時代初期832(天長9)年? 鎌倉時代初期? 室町時代中期1439(永享11)年?
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下野国足利荘(現在の栃木県足利市)に「足利学校」が創立される。教育の中心は儒学であったが、易学を学ぶために訪れる者も多く、また兵学、医学なども教えた。「板東の大学」・「日本最古の学校」と呼ばれる。
永正年間(1504年 - 1520年)から天文年間(1532年 - 1554年)
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足利学校、火災で一時的に衰微したが、第7代庠主・九華が北条氏政の保護を受けて再興。学徒3,000人とされ、事実上日本の最高学府となり、全盛期を迎える。当時の「足利学校」の様子について、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、海外にまでその名が伝えられる。
1630(寛永7)年 - 1632(寛永9)年
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林羅山(46-47歳)、将軍・徳川家光より江戸上野忍岡に土地を与えられる。1632(寛永9)年、江戸上野忍岡の地に孔子廟・私塾「弘文館」(学問所)・文庫を建て、「先聖殿」(後に忍岡聖堂と呼ばれる)と称する。私塾より多くの門人を輩出、後世の「昌平坂学問所」の起源・基礎となる。尾張藩初代藩主・徳川義直より、私邸の孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助を受け、晩年は幕府より910石を給せられる。
1790(寛政2)年 - 1797(寛政9)年
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「寛政異学の禁」により、江戸幕府の教学政策として朱子学が奨励される。林家の私塾であった「弘文館」(学問所)を江戸幕府直轄の教学機関・施設に。「昌平坂学問所(昌平黌)」創立。外部より尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。
1811(文化8)年
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江戸幕府の編暦・測量を司る天文方内に、高橋景保の提唱で、蘭書を中心に翻訳する機関「蛮(蕃)書和解御用」(蛮(蕃)書和解御用掛とも呼ばれる)を設置。大槻玄沢、宇田川榕菴、青地林宗など、優秀な蘭学者が翻訳官に任命される。
1838(天保9)年春
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緒方洪庵、「適塾」の教育について、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針とする。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法『ガランマチカ』、次いで文章論『セインタキス』を学んだ後に原書の会読に加わる。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかない『ヅーフ』の蘭和辞書を奪い合うようにして勉強。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものとなる。
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緒方洪庵、「適塾」の教育について、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいた。各自の自由な学問研究を伸ばす学風があった。
1839(天保10)年
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佐久間象山(27-28歳)、江戸神田於玉ヶ池にて私塾「象山書院」創立。儒学を教える。
1842(天保13)年
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佐久間象山(30-31歳)、松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられる。顧問に抜擢され、アヘン戦争での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することに。魏源『海国図志』などを元に『海防八策』上書。これを機に、蘭学修得の必要に目覚る。
1842(天保13)年
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玉木文之進(31-32歳)、畳一間の私塾を開き、「松下村塾」と名付ける。少年だった甥・吉田松陰も入門。指導は非常に厳格なもので、吉田松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。親戚の乃木希典も教育を受ける。
1844(天保15年/弘化元)年以降
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「適塾」入門者署名帳「姓名録」に記載されただけで636人、このほかに通いの塾生や1843年以前の門人等を含めると、資料で判明している限りでも、子弟は1000名を超えるものと推定される。
1844(弘化元)年
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佐久間象山(32-33歳)、オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努める。これにより、藩主・真田幸貫より洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられる。私塾「象山書院」を閉じ、江川英龍の下で兵学を学ぶ。
1845(弘化2)年
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緒方洪庵(34-35歳)、名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増えた為、瓦町の塾では手狭に。過書町(現在の大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入、「適塾」移転。
1849(嘉永2)年4月
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孝明天皇より「学習院」の勅額下賜される。
1850(嘉永3)年頃
1851(嘉永4)年
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佐久間象山(39-40歳)、大砲鋳造に成功、西洋砲術家としての名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功、牛痘種の導入も企図。再び江戸に移住、木挽町に「五月塾」創立。砲術・兵学を教える。勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬ら後の俊才が続々と入門。
1851(嘉永4)年
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佐久間象山(39-40歳)、大砲鋳造に成功、西洋砲術家としての名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功、牛痘種の導入も企図。再び江戸に移住、木挽町に「五月塾」創立。砲術・兵学を教える。勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門。
1853(嘉永6)年
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佐久間象山(41-42歳)、ペリー来航、松代藩軍議役として浦賀の地を訪れる。この報告を江戸幕府老中・阿部正弘に『急務十条』として奏上。この機に、吉田松陰に暗に外国行きを勧める。
1853(嘉永6)年
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吉田松陰(22-23歳)、ペリーが浦賀に来航。師・佐久間象山と黒船を遠望観察。西洋の先進文明に心を打たれる。同志・宮部鼎蔵に「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と書簡を送る。
1853(嘉永6)年
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吉田松陰(22-23歳)、師・佐久間象山の薦めもあり、外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と共に長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとする。クリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航、想いを果たせず。
1853(嘉永6)年
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杉亨二(24-25歳)、 勝海舟と知り合う。勝海舟の私塾、蘭学塾「勝塾」の塾長に。
1854(嘉永7)年
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吉田松陰(23-24歳)、日米和親条約締結の為にペリー再航。金子重之輔と二人、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船。しかし、渡航は拒否され、小船も流される。下田奉行所に自首、伝馬町牢屋敷に投獄される。幕府の一部にて、佐久間象山・吉田松陰両名を死罪にという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中・松平忠固、老中首座・阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となる。長州へ檻送された後、野山獄に幽囚。ここで富永有隣、高須久子と知り合う。獄中にて、密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記す。
1854(嘉永7)年 - 1862(文久2)年
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佐久間象山(42-51歳)、門弟・吉田松陰がペリー再航の際に密航を企て、失敗。この事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄。その後、松代での蟄居を余儀なくされる。
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江戸中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。
1854(嘉永7/安政元)年 - 1855(安政2)
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古賀謹一郎(37-39歳)、従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱く。度々、老中阿部正弘に対し建白書を提出。「洋学所」設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求める。
1855(安政2)年9月
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古賀謹一郎(38歳)、1853(嘉永6)年の黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の「天文台蛮書和解御用掛」を拡充、「洋学所」開設。老中阿部正弘より直に、洋学所頭取を任命される。蘭書翻訳・教育機関を構想、勝麟太郎らと共に草案を作成。「蕃書調所」設立案を提出。
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「洋学所」、安政の大地震により全壊消失。
1856(安政3)年2月11日/3月17日 - 1857(安政元)年2月
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古賀謹一郎(39-40歳)、「洋学所」を「蕃書調所」に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。頭取に着任し、国内の著名な学者を招聘。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安(寺島宗則)、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六(大村益次郎)、木村軍太郎、市川斎宮、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元、中村敬輔(中村敬宇)、加藤弘之らを教授手伝に。幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用。
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「蕃書調所」、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は降盛、書籍は次第に充実、自然科学部門も置かれた。
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古賀謹一郎、入獄中であった堀達之助の才能を惜しむ。便宜を図って出獄させ、日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせる。
1857(安政4)年
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吉田松陰(26-27歳)、叔父・玉木文之進が主宰する「松下村塾」の名を引き継ぎ、杉家の敷地に「松下村塾」開塾。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。
1857(安政4)年
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福澤諭吉(21-22歳)、最年少で「適塾」10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。塾頭後任に、長與專齋を指名。
1858(安政5)年5月
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天然痘の予防及び治療を目的に、日本各地に「種痘所」が設立される。長崎の「鳴滝塾」でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学んだ伊東玄朴、大槻俊斎、戸塚静海らを中心に、蘭方医83名の出資により「お玉ヶ池種痘所」を開設。種痘の普及と西洋医学の講習を行うことを目的とする。
1858(安政5)年5月
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大槻俊斎(51-52歳)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学んだ伊東玄朴・戸塚静海らと共に、江戸に「お玉が池種痘所」開設。所長となる。
1858(安政5)年11月
1858(安政5)年
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「蕃書調所」、幕臣の子弟に限らず、藩士の子弟の入学も認めるように。
1858(安政5)年
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江戸鉄炮洲の中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。
1858(安政5)年
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福澤諭吉(22-23歳)、幕末時勢の中、中津藩より江戸出府を命じられ、「適塾」を去る。江戸鉄炮洲の中津藩邸に開かれていた蘭学塾「一小家塾」の講師となるため、古川正雄(後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い、江戸へ。築地鉄砲洲にあった奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。「慶応義塾」の起源に。
1859(安政6)年9月
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下谷和泉橋通りに「種痘所」を再建。
1858(安政5)年
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福澤諭吉(22-23歳)、幕末時勢の中、中津藩より江戸出府を命じられ、「適塾」を去る。江戸鉄炮洲の中津藩邸に開かれていた蘭学塾「一小家塾」の講師となるため、古川正雄(後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い、江戸へ。築地鉄砲洲にあった奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。「慶応義塾」の起源に。
1859(安政6)年
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福澤諭吉(23-24歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。「蘭学塾」より英学塾に転身する契機に。
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福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。「蕃書調所」へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、「蕃書調所」の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。