北里大学
志賀潔
しがきよし
1871(明治4)年12月18日/2月7日 - 1957(昭和32)年1月25日
1871(明治4)年12月18日/2月7日
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志賀潔、 仙台藩陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)に仙台藩士の子として生まれる。幼名、直吉。
1878(明治11)年
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志賀潔(6-7歳)、母親の実家であり、仙台藩の藩医を務める志賀家の養子に。名を潔と改称。
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志賀潔、「第一高等中学校」卒業。
1892(明治25)年
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志賀潔(20-21歳)、「東京帝国大学医科大学」入学。
1896(明治29)年
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志賀潔(24-25歳)、 「東京帝国大学医科大学」卒業。「伝染病研究所」入所。北里柴三郎に師事。
1897(明治30)年
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志賀潔(25-26歳)、赤痢菌を発見。『細菌学雑誌』に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表。
1898(明治31)年
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志賀潔(26-27歳)、『赤痢病原研究報告第一』要約論文をドイツ語で発表。赤痢菌の属名は、自身の名前に因んでShigellaとされた。
1899(明治32)年
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志賀潔(27-28歳)、 内務省技師、「伝染病研究所」第一部長に。
1901(明治34)年
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志賀潔(29-30歳)、 ドイツ・フランクフルトに留学、パウル・エールリヒに師事。ベンチジン系赤色色素の治療効果を明らかにし、トリパンロートと命名。
1905(明治38)年
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志賀潔(33-34歳)、 日本に帰国。医学博士号を取得。脚気に対して追実験を行い、脚気細菌起源説を否定。
1912(明治45/大正元)年
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志賀潔(40-41歳)、再びドイツに渡り、パウル・エールリヒに師事。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、政府は一切の相談もなく、国立「伝染病研究所」を文部省に移管、「東京帝国大学」の下部組織にすると発表。「東京帝国大学医科大学」学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、私財を投じ、新たに私立「北里研究所」設立。初代所長に。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
1917(大正6)年
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北里柴三郎(63-64歳)、福澤諭吉没後、長年の多大なる恩義に報いるため、「慶應義塾医学部」創設。初代医学部長、付属病院長に。教授陣に、ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、「北里研究所」の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。終生無給で「慶應義塾医学部」の発展に尽力。
1920(大正9)年
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志賀潔(48-49歳)、「慶應義塾大学医学部」教授に。
1920(大正9)年秋
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志賀潔(49歳)、朝鮮総督府医院長、「京城医学専門学校」校長に転じる。
1926(大正15)年
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志賀潔(54-55歳)、新たに創立された「京城帝国大学」(現在のソウル大学校)医学部長に。
1929(昭和4)年
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志賀潔(54-55歳)、「京城帝国大学」総長に。
1931(昭和6)年
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志賀潔(56-57歳)、内地に戻り、「北里研究所」顧問に。
1945(昭和20)年
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志賀潔(73-74歳)、東京大空襲で被災、家財を失い、仙台に疎開。
1957(昭和32)年1月25日
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志賀潔(85歳)、死去。享年、85歳。
