北里大学

北里柴三郎

きたざとしばさぶろう

1853(嘉永5)年12月20日/1月29日 - 1931(昭和6)年6月13日

1853(嘉永5)年12月20日/1月29日

  • 北里柴三郎、 肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)に庄屋・北里惟保と母・貞の子として生まれる。

  • 北里柴三郎(8-10歳)、 母・貞は教育に関して甘えを許さず、親戚の家に預け、厳しい躾を依頼。父・北里惟保の姉の嫁ぎ先であった橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わる。

  • 北里柴三郎(10-14歳)、 母・貞の実家に預けられ、、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学ぶ。

1869(明治2)年

  • 北里柴三郎(15-16歳)、細川藩校「時習館」入寮。

1870(明治3)年

  • 北里柴三郎(16-17歳)、細川藩校「時習館」が閉鎖に。「熊本医学校」入学。教師・マンスフェルトに出会ったことで、本格的に医学に目覚めることに。特別に語学を教わり、2年目からは通訳を務める。

1875(明治8)

  • 北里柴三郎(21-22歳)、「東京医学校」入学。在学中、よく教授の論文に口を出していたため、大学側と仲が悪く、何度も留年。

1883(明治16)年

  • 北里柴三郎(29-30歳)、医学士に。在学中、「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とすることを決意。『医道論』を書く。

  • 北里柴三郎、長與專齋が局長を務める、内務省衛生局に入省。

1885(明治18)年

  • 北里柴三郎(31-32歳)、「東京医学校」の同期生、「東京大学」教授兼衛生局試験所所長・緒方正規の計らいにより、ドイツ「ベルリン大学」へ留学。コッホに師事し業績を上げる。

​1887(明治20)年

  • 石黒忠悳 (41-42歳)、ベルリン訪問、「ベルリン大学」に留学中の北里柴三郎について、ペッテンコーファー研究室に移るように指示。しかし、教師・コッホに面会、期待の大きさを目のあたりに。異動命令を撤回。

1889(明治22)年

  • 北里柴三郎(35-36歳)、世界で初めて、破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。

1890(明治23)年

  • 北里柴三郎(36-37歳)、破傷風菌抗毒素を発見、世界の医学界を驚嘆させる。さらに、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な血清療法を開発。

1890(明治23)年

  • 北里柴三郎(36-37歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。

1891(明治24)年8月

  • 北里柴三郎(38歳)、医学博士の学位を受ける。

1892(明治25)年

  • 北里柴三郎(38-39歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする「東京大学」教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈し、母校「東京大学医学部」と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。

1892(明治25)年​

  • 福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。

1892(明治25)年

  • 北里柴三郎(38-39歳)、福澤諭吉、森村市左衛門、長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立伝染病研究所設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。

1893(明治26)年

  • 北里柴三郎(39-40歳)、日本で最初の結核専門病院「土筆ケ岡養生園」設立。結核予防と治療に尽力​。

1894(明治27)年

  • 北里柴三郎(40-41歳)、私立「伝染病研究所」が大日本私立衛生会附属に。芝区愛宕町の内務省用地を借り受け、新築移転。

1894(明治27)年

  • 北里柴三郎(40-41歳)、政府よりペストの蔓延していた香港に派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげる。

1899(明治32)年3月

  • 北里柴三郎(46歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念の下、「伝染病研究所」を国に寄付、内務省管轄の国立「伝染病研究所」となる。所長に。

1901(明治34)年

  • 北里柴三郎(47-48歳)、 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる。

1906(明治39)年4月

  • 北里柴三郎(53歳)、日本連合医学会会頭に。

1906(明治39)年9月

  • 北里柴三郎(53歳)、帝国学士院会員に。

1906(明治39)年

1913(大正2)年

  • 北里柴三郎(60-61歳)、日本結核予防協会設立。副会頭に。

1914(大正3)年

  • 北里柴三郎(60-61歳)、政府は一切の相談もなく、国立「伝染病研究所」を文部省に移管、「東京帝国大学」の下部組織にすると発表。「東京帝国大学医科大学」学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。

1914(大正3)年

  • 北里柴三郎(60-61歳)、私財を投じ、新たに私立「北里研究所」設立。初代所長に。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組む。

1915(大正4)年

  • 北里柴三郎(61-62歳)、恩賜財団済生会芝病院(現在の東京都済生会中央病院)設立。初代院長に。

1916(大正5)年

1916(大正6)年11月

  • 北里柴三郎(63-64歳)、府県の医師会を統合、全国規模の医師会として大日本医師会設立。初代会長に。

1917(大正6)年

  • 北里柴三郎(63-64歳)、福澤諭吉没後、長年の多大なる恩義に報いるため、「慶應義塾医学部」創設。初代医学部長、付属病院長に。教授陣に、ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、「北里研究所」の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。終生無給で「慶應義塾医学部」の発展に尽力。​

1923(大正12)年

  • 北里柴三郎(69-70歳)、医師法に基づく日本医師会発足。初代会長に。

1924(大正13)年2月

  • 北里柴三郎(71歳)、男爵に叙せられる。

1928(昭和3)年5月

1931(昭和6)年6月13日

  • 北里柴三郎(78歳)、死去。享年、78歳。