ダイガクコトハジメ - 北里大学
北里大学
創立 : 1892(明治25)年
大学設立: 1962(昭和37)年
前史 :
私立「伝染病研究所」 → 内務省管轄に、国立「伝染病研究所」 → 文部省管轄に、国立「伝染病研究所」 → 東京帝国大学附置伝染病研究所 → 東京大学医科学研究所
北里研究所 → 北里大学
「北里大学」年表
1885(明治18)年
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北里柴三郎(31-32歳)、「東京医学校」の同期生、「東京大学」教授兼衛生局試験所所長・緒方正規の計らいにより、ドイツ「ベルリン大学」へ留学。コッホに師事し業績を上げる。
1887(明治20)年
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石黒忠悳 (41-42歳)、ベルリン訪問、「ベルリン大学」に留学中の北里柴三郎について、ペッテンコーファー研究室に移るように指示。しかし、教師・コッホに面会、期待の大きさを目のあたりに。異動命令を撤回。
1889(明治22)年
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北里柴三郎(35-36歳)、世界で初めて、破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。
1890(明治23)年
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北里柴三郎(36-37歳)、破傷風菌抗毒素を発見、世界の医学界を驚嘆させる。さらに、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な血清療法を開発。
1890(明治23)年
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北里柴三郎(36-37歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする「東京大学」教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈し、母校「東京大学医学部」と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
1892(明治25)年
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福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、福澤諭吉、森村市左衛門、長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立「伝染病研究所」設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
1893(明治26)年
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北里柴三郎(39-40歳)、日本で最初の結核専門病院「土筆ケ岡養生園」設立。結核予防と治療に尽力。
1894(明治27)年
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北里柴三郎(40-41歳)、私立「伝染病研究所」が大日本私立衛生会附属に。芝区愛宕町の内務省用地を借り受け、新築移転。
1894(明治27)年
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北里柴三郎(40-41歳)、政府よりペストの蔓延していた香港に派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげる。
1897(明治30)年
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志賀潔(25-26歳)、赤痢菌を発見。『細菌学雑誌』に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表。
1898(明治31)年
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志賀潔(26-27歳)、『赤痢病原研究報告第一』要約論文をドイツ語で発表。赤痢菌の属名は、自身の名前に因んでShigellaとされた。
1899(明治32)年3月
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北里柴三郎(46歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念の下、「伝染病研究所」を国に寄付、内務省管轄の国立「伝染病研究所」となる。所長に。
1899(明治32)年
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志賀潔(27-28歳)、 内務省技師、「伝染病研究所」第一部長に。
1901(明治34)年
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北里柴三郎(47-48歳)、 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる。
1901(明治34)年
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志賀潔(29-30歳)、 ドイツ・フランクフルトに留学、パウル・エールリヒに師事。ベンチジン系赤色色素の治療効果を明らかにし、トリパンロートと命名。
1905(明治38)年
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志賀潔(33-34歳)、 日本に帰国。医学博士号を取得。脚気に対して追実験を行い、脚気細菌起源説を否定。
1906(明治39)年
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国立「伝染病研究所」、港区白金台に新築移転。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、政府は一切の相談もなく、国立「伝染病研究所」を文部省に移管、「東京帝国大学」の下部組織にすると発表。「東京帝国大学医科大学」学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、私財を投じ、新たに私立「北里研究所」設立。初代所長に。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
1916(大正5)年
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文部省管轄の国立「伝染病研究所」、「東京帝国大学附置伝染病研究所」に。
1917(大正6)年
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北里柴三郎(63-64歳)、福澤諭吉没後、長年の多大なる恩義に報いるため、「慶應義塾医学部」創設。初代医学部長、付属病院長に。教授陣に、ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、「北里研究所」の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。終生無給で「慶應義塾医学部」の発展に尽力。
1931(昭和6)年
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北島多一(60-61歳)、 北里柴三郎の後を継ぎで、「北里研究所」第2代所長に。
1931(昭和6)年
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志賀潔(56-57歳)、内地に戻り、「北里研究所」顧問に。
1962(昭和37)年
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「北里研究所」創立50周年記念事業として、学校法人北里学園を設立。「北里大学衛生学部(化学科・衛生技術学科)」設立。
1971(昭和46)年
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「北里大学病院」開院。