ダイガクコトハジメ - 立志学舎
立志学舎
創立 : 1874(明治7)年4月10日
創立者 : 板垣退助
前史 :
立志学舎
「立志学舎」年表
1871(明治4)年
-
板垣退助(33-34歳)、参議に。
1873(明治6)年10月24日-10月25日
明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
1873(明治6)年
-
板垣退助(35-36歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。
1874(明治7)年1月10日
1874(明治7)年4月10日
-
板垣退助(36-37歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的に政治団体「立志社」結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う「立志学舎」創立。教員に、「慶應義塾」を卒業した江口高邦と深間内基、矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造、久米弘行、森春吉が駆けつける。「慶應義塾」と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。
1874(明治7)年
-
福澤諭吉(38-39歳)、明治六年政変で、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の「立志学舎」に「慶応義塾」門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援、国会開設運動の先頭に立ち、『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。
1875(明治8)年
-
板垣退助(37-38歳)、大阪会議、参議に復帰するも、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞任。再び自由民権運動に身を投じる。
1877(明治10)年
-
永田一二、吉良亨が講師に。
1878(明治11)年
-
門野幾之進、城泉太郎が講師に。
1881(明治14)年
-
板垣退助(43-44歳)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党結成。総理に。
1881(明治14)年
-
「三菱商業学校」、教員の馬場辰猪・大石正巳らが自由党の結成に参加。「三菱商業学校」校舎を使い、夜間教室「明治義塾」開設。土佐熱血漢達の自由民権思想普及の場として人気を集めるも、薩長閥の政府から睨まれることに。
1882(明治15)年4月
-
板垣退助(44歳)、自由党の党勢拡大に全国遊説中、岐阜にて暴漢・相原尚褧に襲われ、負傷(岐阜事件)。竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」。これがやがて、「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることに。
1884(明治17)年10月
-
板垣退助(47歳)、自由民権運動激化、加波山事件が起き、自由党を一旦解党。
-
大阪会議での板垣退助の参議復活や後藤象二郎の政府復帰など、土佐での民権運動が下火になり、また自由民権運動への弾圧により、自然消滅。