慶應義塾大学
浜野定四郎
はまのさだしろう
1845(弘化2)年8月13日/10月4日 - 1909(明治42)年11月14日
1845(弘化2)年8月13日/10月4日
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浜野定四郎、豊前国中津藩(現在のの大分県中津市)に豊前中津藩士・浜野覚三の子に生まれる。幼名、丑之助。
1864(元治元)年
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福澤諭吉(28-29歳)、郷里中津に赴き、小幡篤次郎・小幡甚三郎・浜野定四郎・三輪光五郎ら6名を江戸に連れてくる。
1864(元治元)年6月
1874(明治7)年
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浜野定四郎(28-29歳)、「中津市学校」校長に。
1878(明治11)年頃
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浜野定四郎(32-33歳)、「慶応義塾」塾長に。
1881(明治14)年1月
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福澤諭吉(45-46歳)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれ、危うい立場に。「慶應義塾」の自主独立を実現するため、塾生と共に『慶應義塾維持法案』を練り、『慶應義塾仮憲法』制定。渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることに。
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『慶應義塾仮憲法』、塾長の選任について、「一、理事委員の協議を以て、現任教員中より一名を選び、之を慶應義塾々長とす。」・「一、教員、役員を定むるは、社頭、塾長の協議に任ず可し。」と定める。
1881(明治14)年1月
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浜野定四郎(35歳)、『慶應義塾仮憲法』制定後、選任による初の塾長に。「慶応義塾」初代塾長に選ばれる。
1881(明治14)年1月
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浜野定四郎(35歳)、「慶応義塾」理事委員に。
1887(明治20)年10月
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浜野定四郎(42歳)、「慶応義塾」会計建築長に。
1889(明治22)年10月
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浜野定四郎(44歳)、「慶応義塾」会計主任に。
1889(明治22)年10月 - 1902(明治35)年11月
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浜野定四郎(44-57歳)、「慶応義塾」第1期評議員に。改訂規約により、第6期任期中に辞任するまで評議員をつとめる。
1908(明治41)年春
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浜野定四郎(62歳)、「慶応義塾」退職。
1909(明治42)年11月14日
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浜野定四郎(64歳)、死去。享年、64歳。