学農社農学校

 

津田仙

つだせん

1837(天保8)年7月6日/8月6日 - 1908(明治41)年4月24日

1837(天保8)年7月6日/8月6日

  • 津田仙、下総国佐倉藩佐倉城内に下総国佐倉藩の堀田氏家臣・小島良親(善右衛門)の三男として生まれる。幼名、千弥。

1851(嘉永4)年

  • 津田仙(13-14歳)、元服、桜井家の養子に。

1855(安政2)年

  • 津田仙(17-18歳)、江戸幕府に出仕。蘭学塾入門。森山栄之助に英語を学ぶ。

1861(文久元)年

  • 津田仙(23-24歳)、外国奉行の通訳に。

1867(慶応3)年1月23日/2月27日

  • 津田仙(30歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で渡米。福澤諭吉・尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。

1869(明治2年)

  • 津田仙(31-32歳)、幕府崩壊、官職を辞す。築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。

1869(明治2年)

  • 津田梅子(4-5歳)、幕府崩壊に伴い、父・津田仙が職を失う。築地のホテル館へ勤め、一家で向島へ。

1871(明治4)年

  • 津田仙(33-34歳)、明治政府が設立した北海道開拓使の嘱託に。女子教育に関心のあった開拓次官・黒田清隆が政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘・津田梅子を応募。

1871(明治4)年

  • 津田梅子(6歳)、父・津田仙が明示新政府の事業・北海道開拓使の嘱託に。麻布へ移る。開拓使次官・黒田清隆は女子教育に関心をもっており、黒田清隆が企画した女子留学生に応募。

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

1871(明治4)年

  • 津田梅子(6歳)岩倉遣欧使節団に随行、渡米。ワシントンへ。随行員5人の少女のうち、最年少であった。日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。

1871(明治4)年

  • 津田仙(34歳)、北海道開拓使を辞職。民部省入省。

1873(明治6)年

  • 津田仙(35-36歳)、ウイーン万国博覧会の副総裁・佐野常民の書記官として、随行。

1874(明治7)年5月

  • 津田仙(36歳)、帰国後、オランダ人農学者ダニエル・ホイブレイクの指導を受け、『農業三事』出版。

1875(明治8)年1月

  • 津田仙(37歳)、米国メソジスト監督派教会にて、ジュリアス・ソーパー宣教師よりメソジスト派信者として妻・初と共に洗礼を受ける。

1875(明治8)年5月

  • 津田仙(38歳)、古川正雄、中村正直、岸田吟香、ボルシャルト、ヘンリー・フォールズらと共に、盲聾唖者の教育のため組織「楽善会」発足。

1875(明治8)年

  • 津田仙(37-38歳)、ウィーン万博から持ち帰ったニセアカシアの種子が、大手町に植えられる。東京発の街路樹に。

1876(明治9)年

1876(明治9)年

  • 津田仙(38-39歳)、東京麻布にて、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社設立。その一環として、「学農社農学校」創立。キリスト教指導も行う。

1876(明治9)年

  • 津田仙(38-39歳)、学農社雑誌局発行『農業雑誌』で、アメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始める。これが、日本で最初の通信販売と言われる。

1876(明治9)年

  • 津田仙(38-39歳)、栗原信近に招かれ、ワイン醸造技術指導のため甲府を訪れる。

1883(明治16)年

  • 津田仙(45-46歳)、第三回全国基督教信徒大親睦会の幹部に。

1883(明治16)年

  • 津田梅子(18-19歳)、外務卿・伊藤博文の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会。華族子女を対象に教育を行う私塾「桃夭女塾」を開設した下田歌子を紹介される。

  • 津田梅子、父・津田仙との確執もあり、伊藤博文に雇われ、伊藤家に滞在。英語指導や通訳にあたる。

1884(明治17)年12月

  • 津田仙(47歳)、明治十四年の政変の影響か、学生数が半減、「学農社農学校」閉校。

1888(明治21)年

  • 津田梅子(23-24歳)、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日。留学を薦められ、再度の留学を決意。父・津田仙の知人、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介により、留学希望を伝え学費免除の承諾を得る。「華族女学校」校長・西村茂樹より、2年間の留学を許可される。

1890(明治23)年

  • 津田仙(52-53歳)、東北を視察、りんご二十数種を東京に持ち帰る。当時珍しかったマスコミ向けの試食会を開催。

  • 津田仙、足尾鉱毒事件、田中正造を助け、農民救済運動に奔走。

1897(明治30)年

  • 津田仙(59-60歳)、事業引退。鎌倉で過ごす。

1900(明治32)年7月

  • 津田梅子(35歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、「女子英学塾」創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。

1908(明治41)年4月24日

  • 津田仙(70歳)、死去。享年、70歳。新島襄・中村正直と共に、「キリスト教界の三傑」と称される。