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ダイガクコトハジメ - 中上川彦次郎

中上川彦次郎

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  • 1854(嘉永7/安政元)年10月4日(旧暦・8月13日) 中上川彦次郎(1歳)、 豊前国中津藩(現・大分県中津市金谷森ノ丁)に豊前中津藩士・中上川才蔵と母・婉の長男として生まれる。福澤諭吉の甥。

  • 中上川彦次郎、手島物斎とその弟・橋本塩巖に漢学を学ぶ。

  • 中上川彦次郎(15歳頃)、 中津藩校・進脩館で四書五経を学ぶ。後に、講師に。

  • 中上川彦次郎、叔父・福澤諭吉に憧れ、洋学に関心を持っ。大阪に出て、緒方洪庵適塾入塾。山口良蔵に学ぶ。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。

  • 1869(明治2)年 中上川彦次郎(16歳)、東京留学が許され、慶應義塾入学。

  • 中上川彦次郎、福澤諭吉の指示により、郷里中津へ。中津市学校設立。伊予宇和島藩の洋学校教員など歴任。

  • 1874(明治7)年2月 福澤諭吉(40歳)、都会偏重の政策に対する一般民衆特に農村社会への啓もう活動を目的に、慶應義塾出版社より『民間雑誌』不定期刊行。主な執筆者は、福澤諭吉をはじめに、小幡篤次郎中上川彦次郎矢野文雄・那珂通世・林茂吉・藤田茂吉・箕浦勝人ら。次第に政治論説を掲げるようになり、翌年5月に189号をもって廃刊となる。

  • 1874(明治7)年10月 - 1876(明治9)年 中上川彦次郎(21-23歳)福澤諭吉の援助により、英国ロンドン留学。小泉信吉と共に下宿。海外調査のためロンドンに滞在していた元老院議官・井上馨の知遇を得る。

  • 1876(明治9)年 小泉信吉(28歳)、紀州徳川家の援助を受け、英国ロンドンに留学。中上川彦次郎と共に下宿。海外調査のためロンドンに滞在していた井上馨の知遇を得る。

  • 1878(明治11)年 中上川彦次郎(25歳)、英国より帰国後、工部卿・井上馨に誘われ、工部省入省。井上馨の秘書官に。

  • 1878(明治11)年 小泉信吉(30歳)、留学より帰国。井上馨に抜擢され、大蔵省奏任御用掛に。英国における生命保険事業について研究。

  • 中上川彦次郎、井上馨が外務卿に。外務省へ。

  • 中上川彦次郎、従六位に叙せられる。太政官少書記官に。中野健明の後を継ぎ、公信局長に。

  • 1880(明治13)年 中上川彦次郎(27歳)、外務省太政官権大書記官に。井上馨の下、条約改正案を作成。

  • 1880(明治13)年 福澤諭吉(46歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、慶應義塾出身者を中心に、交詢社創立。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。福澤諭吉を会長に、大隈重信・鍋島直大・後藤象二郎をはじめ華族・官僚・学者・地主・商工業者など参加。

  • 1880(明治13)年 小泉信吉(32歳)、実業家社交クラブ・交詢社の設立発起人に。

  • 矢野龍渓、私擬憲法が議論され始めると、交詢社創設に加わる。常議員に。

  • 1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

  • 小泉信吉福澤諭吉より伊藤博文・井上馨の参議から要請された政府新聞『公布日誌』発行を引き受けたことを極秘裏に打ち明けられる。信頼厚く、「能く慶應義塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物」と評される。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

  • 1881(明治14)年 福澤諭吉(47歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。

  • 1881(明治14)年 中上川彦次郎(28歳)、明治十四年の政変、外務省を辞す。

  • 1881(明治14)年 森下岩楠(30歳)、明治十四年の政変、大蔵省を辞官。時事新報入社。

  • 1882(明治15)年3月1日​ 福澤諭吉(48歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、慶應義塾出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ」

  • 1882(明治15)年 中上川彦次郎(28歳)、福澤諭吉の勧めにより、『時事新報』社長兼主筆に。

  • 1887(明治20)年 中上川彦次郎(34歳)、三菱の荘田平五郎より要請、山陽鉄道創設において初代社長に。

  • 1891(明治24)年 中上川彦次郎(38歳)、三井銀行の経営危機。上馨の懇請により、山陽鉄道を辞して三井財閥入り。三井銀行理事に。三井鉱山理事・三井物産理事・三井呉服店調査委員を兼務、三井大元方参事に。益田孝らと共に、三井財閥が政商として抱えていた明治政府との不透明な関係を一掃。不良債権の回収に奔走。一方、王子製紙・鐘淵紡績・芝浦製作所などを傘下に、三井財閥の工業化を推進。

  • 中上川彦次郎、井上馨の反対を押し切って桂太郎の邸宅を差し押さえるなど、豪腕にして財務体質の健全化を図る。政府高官に対する貸金回収策は苛烈で、井上馨との関係がうまくいかなくなる結果に。

  • 1901(明治34)年10月7日 中上川彦次郎(48歳)、死去。享年48歳。「三井中興の祖」として高く評価される。

上川彦次

なかみがわひこじろう

1854(嘉永7/安政元)年10月4日(旧暦・8月13日) - 1901(明治34)年10月7日

慶應義塾教師、大蔵官僚、外務官僚、時事新報社長兼主筆、山陽鉄道初代社長、三井財閥入り、三井銀行理事・三井鉱山理事・三井物産理事・三井呉服店調査委員・三井大元方参事、益田孝らと共に三井財閥改革、商業化を掲げる益田孝に対して工業推進、「三井中興の祖」

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