慶應義塾大学

小泉信吉

こいずみのぶきち

1853(嘉永2)年2月3日/3月12日 - 1894(明治27)年12月8日

1842(天保13)年6月8日/7月15日

  • 小泉信吉、 紀伊国名草郡宮村(現在の和歌山市)に紀伊国紀州藩士紀州徳川家の侍医で禄高250石の小泉文庫の子として生まれる。

1866(慶応2)年

  • 小泉信吉(12-13歳)、福澤諭吉が開いて間もなかった 江戸鉄砲洲中津藩「蘭学塾」入塾。洋学を学ぶ。紀州藩からの藩費留学生は多く居たが、特に神童と呼ばれる。

  • 小泉信吉、戊辰戦争、多くの紀州藩士が帰郷する中、福澤諭吉が紀州藩の執政に頼み、江戸に留まることに。

  • 小泉信吉、「大阪舎密学校」教授に。

1876(明治9)年

  • 小泉信吉(22-23歳)、紀州徳川家の援助を受け、英国ロンドンに留学。中上川彦次郎と共に下宿。海外調査のためロンドンに滞在していた井上馨の知遇を得る。

1878(明治11)年

  • 小泉信吉(24-25歳)、留学より帰国。井上馨に抜擢され、大蔵省奏任御用掛に。英国における生命保険事業について研究。

1879(明治12)年

  • 小泉信吉(25-26歳)、横浜正金銀行が設立されると、副頭取に。

1880(明治13)年

  • 福澤諭吉(44-45歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、「慶應義塾」出身者を中心に、「交詢社」創立。名称は、「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。

1880(明治13)年

  • 小泉信吉(26-27歳)、実業家社交クラブ「交詢社」の設立発起人に。

1880(明治13)年

  • 小泉信吉(26-27歳)、大蔵省に戻る。奏任御用掛、主税官を歴任。

1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月

  • 福澤諭吉(45-46歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文、井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

  • 小泉信吉、福澤諭吉より伊藤博文、井上馨の参議から要請された政府新聞『公布日誌』発行を引き受けたことを極秘裏に打ち明けられる。信頼厚く、「能く慶應義塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物」と評される。

1881(明治14)年

明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。

1882(明治15)年3月1日​

  • 福澤諭吉(47歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、「慶應義塾」出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。​

 

1887(明治20)年

  • 小泉信吉(33-34歳)、慶應義塾評議員の第一会選挙で当選、「慶應義塾」塾長に。

1889(明治22)年10月

1890(明治23)年

  • 小泉信吉(36-37歳)、「慶應義塾」に大学部を創設。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、「慶應義塾」塾長を短期辞任に追い込まれる。

1890(明治23)年1月

1890(明治23)年

  • 小泉信吉(36-37歳)、日本銀行取締役に。

1892(明治25)年

  • 小泉信吉(38-39歳)、横浜正金銀行本店支配人に。​

1905(明治38)年4月16日

  • 小泉信吉(41歳)、死去。享年、41歳。