ダイガクコトハジメ - 三菱商業学校/明治義塾
三菱商業学校/明治義塾
創立 : 1878(明治11)年3月
創立者 : 岩崎弥太郎、森下岩楠
前史 :
三菱商業学校 → 明治義塾
「三菱商業学校/明治義塾」年表
1874(明治7)年6月 -
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福澤諭吉(39-歳)、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を「慶應義塾」出版局より刊行。複式簿記を提唱。
1874(明治7)年
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福澤諭吉(38-39歳)、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった「慶應義塾」門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせた。
1875(明治8)年
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荘田平五郎(27-28歳)、嘱望され、三菱商会に入社。有能な人材を実業界に供給するのが「慶應義塾」の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底に。また、当人も自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。東京本店勤務、三菱汽船会社規則を策定。
1877(明治10)年
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荘田平五郎(29-30歳)、福澤諭吉『帳合之法』が提唱する複式簿記を採用し、郵便汽船三菱会社簿記法を纏める。これにより、三菱は大福帳経営を脱し、徐々に近代的な経営組織を確立。
1878(明治11)年3月
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森下岩楠(26歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に「三菱商業学校」創立。初代校長に。教官のほとんどを「慶應義塾」の門下生で構成。「慶應義塾」の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成した。
1881(明治14)年
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教員の馬場辰猪・大石正巳らが自由党の結成に参加。「三菱商業学校」校舎を使い、夜間教室「明治義塾」開設。土佐熱血漢達の自由民権思想普及の場として人気を集めるも、薩長閥の政府から睨まれることに。
1884(明治17)年
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「明治義塾」、三菱の資金繰りが逼迫、教師の質にばらつき、政府より謀反人の巣窟とみなされるなどを理由に、廃校に。跡地に、「英吉利法律学校」と「東京英語学校」が創立された。