慶應義塾大学

荘田平五郎

しょうだへいごろう

1847(弘化4)年10月1日/11月8日 - 1922(大正11)年4月30日

1847(弘化4)年10月1日/11月8日

  • 荘田平五郎、 豊後国臼杵(現在の大分県臼杵市)に禄高百石の臼杵藩士で儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。幼名、允徳。

  • 荘田平五郎、 臼杵藩校「学古館」で学ぶ。抜群の秀才であった。

1867(慶応3)年

  • 荘田平五郎(19-20歳)、 臼杵藩より選抜され江戸へ。青地信敬の塾に入門。

1868(慶応4)年

  • 荘田平五郎(20-21歳)、 福澤諭吉を訪ねる。

1868(慶応4)年

  • 荘田平五郎(20-21歳)、藩命により、宮川玄水と共に薩摩藩「開成所」および「洋学局」に派遣される。

1869(明治2)年

  • 荘田平五郎(21-22歳)、薩摩藩「洋学局」講師に。

1870(明治3)年

  • 荘田平五郎(22-23歳)、再度の藩命により、江戸へ。念願であった「慶應義塾」五等試験に合格、入塾。

1871(明治4)年

  • 高島嘉右衛門(38-39歳)、スイス人カドレー、アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授、語学中心の私塾「藍謝堂(高島学校)」を横浜伊勢山下と入船町に開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに「慶應義塾」の海老名晋、荘田平五郎小幡甚三郎浜尾新、日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心、寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。

1871(明治4)年

1872(明治5)年

  • 荘田平五郎(24-25歳)、「慶應義塾」教員に。「慶應義塾大阪分校」に派遣される。

1873(明治6)年

  • 荘田平五郎(25-26歳)、臼杵藩学取締に。「慶應義塾」にて藩主・稲葉久通を教授。

1874(明治7)年

  • 荘田平五郎(26-27歳)、「慶應義塾京都分校」に派遣。和魂洋才の「学問・儒学と算盤の両刀使い」ぶりを十分に発揮。

1874(明治7)年

  • 荘田平五郎(26-27歳)、東京三田に戻り、再び「慶應義塾」で教鞭をとる。

1874(明治7)年6月 -

1874(明治7)年

  • 福澤諭吉(38-39歳)、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった「慶應義塾」門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせた。​

1875(明治8)年

  • 荘田平五郎(27-28歳)、嘱望され、三菱商会に入社。有能な人材を実業界に供給するのが「慶應義塾」の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底に。また、当人も自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。東京本店勤務、三菱汽船会社規則を策定。

1877(明治10)年

  • 荘田平五郎(29-30歳)、福澤諭吉『帳合之法』が提唱する複式簿記を採用し、郵便汽船三菱会社簿記法を纏める。これにより、三菱は大福帳経営を脱し、徐々に近代的な経営組織を確立。

1878(明治11)年3月

  • 森下岩楠(26歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に「三菱商業学校創立。初代校長に。教官のほとんどを「慶應義塾」の門下生で構成。「慶應義塾」の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成した。

  • 荘田平五郎、初期三菱の経営戦略を担い、東京海上保険会社、明治生命保険会社の設立に関わり、第百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立。さまざまな分野への進出を図る。

1880(明治13)年

  • 荘田平五郎(32-33歳)、近藤真琴と共に、海員液済会設立。

 

1880(明治13)年

  • 荘田平五郎(32-33歳)、東京府東京市区改正委員に。

1888(明治16)年

  • 荘田平五郎(35-36歳)、東京商工会員に。

1885(明治18)年

  • 荘田平五郎(37-38歳)、日本郵船設立に際し、三菱側代表として創立委員に。理事就任。

1886(明治19)年

  • 荘田平五郎(38-39歳)、三菱が海運以外の事業を目的に「三菱社」の名で再発足するに際し、本社支配人として復帰。後に管事となり、新生三菱を指揮。

1887(明治20)年

1888(明治21)年

  • 荘田平五郎(40-41歳)、当時輸入されていた西洋ビールに狼や猫等の動物が用いられていた為、東洋らしさを出す為空想上の動物「麒麟」を商標にしようと提案、キリンビールの名付け親に。

1889(明治22)年

  • 荘田平五郎(41-42歳)、造船業界などの実情視察のため、英国外遊。ロンドンのホテルの部屋で開いた新聞のコラムに「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見。「日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。皇居の目の前の丸の内こそその場所だ。」と感じ、岩崎弥之助に「丸の内、買い取らるべし」と打電。三菱丸の内の生みの親に。

1891(明治24)年

  • 荘田平五郎(43-44歳)、筑豊鉄道相談役に。

1891(明治24)年

  • 荘田平五郎(43-44歳)、臨時博覧会事務局評議員に。

1893(明治26)年

  • 荘田平五郎(45-46歳)、東京商業会議所特別会員に。

1893(明治26)年

  • 荘田平五郎(45-46歳)、文部省嘱託により、高等商業学校商議委員に。

1893(明治26)年

  • 荘田平五郎(45-46歳)、貨幣制度調査会委員に。

1893(明治26)年

  • 荘田平五郎(45-46歳)、日本郵船会社本社支配人に。

1895(明治28)年

  • 荘田平五郎(47-48歳)、1887(明治20)年に国より払い下げられた長崎造船所の大改革に着手。日本郵船が欧州航路の開設を決定した際、社外取締役として新造船6隻のうち1隻を長崎造船所に発注することを主張。

  • 荘田平五郎、1897(明治30)年の造船奨励が公布により、修繕船から脱皮、新造船を事業の中核にすることを明確に意識した岩崎久弥により、本社管事としての全事業指揮を離され、敢えて長崎造船所第2代所長に任命される。勇躍長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦などその後の日本の大型船建造の道を開拓。

  • 荘田平五郎、三菱において「傭使人扶助法」「職工救護法」など、労務管理制度を確立また、造船における厳しい原価計算の概念を導入。

1896(明治29)年

  • 荘田平五郎(48-49歳)、東京海上火災保険会社会長に。

1896(明治29)年

  • 荘田平五郎(48-49歳)、日本勧業銀行設立委員に。

1897(明治30)年

  • 荘田平五郎(49-50歳)、三菱造船所支配人に。

1898(明治31)年

  • 荘田平五郎(50-51歳)、農工商高等会議委員に。貨幣法改正に尽力。

1899(明治32)年

  • 荘田平五郎(51-52歳)、三菱所内に「三菱工業予備学校」設立、所長に。自前で職工の養成を図る。

1903(明治36)年

  • 荘田平五郎(55-56歳)、製鉄所商議員に。

1906(明治39)年

1906(明治39)年

  • 荘田平五郎(58-59歳)、南満州鉄道株式会社設立委員に。

1907(明治40)年

  • 荘田平五郎(59-60歳)、帝国軍人援護会より、木杯一組を受ける。

1907(明治40)年

  • 荘田平五郎(59-60歳)、港湾調査会臨時委員に。

1910(明治43)年

  • 荘田平五郎(62-63歳)、岩崎弥太郎、岩崎弥之助、岩崎久弥の三代を支え、三菱財閥の礎を築き、「三菱の大番頭」と呼ばれる。実業界より引退。豪傑肌の人物が多い明治期の三菱経営者たちの中にあって、唯一の英国風のジェントルマンであり、生涯を通して「組織の三菱」と言われる近代的な組織づくりに貢献する。

1917(大正6)年

  • 荘田平五郎(69-70歳)、臨時教育会議委員となり、臨時教育会議官に。

  • 荘田平五郎、明治生命保険会社取締役会長の時期もあるが、受刑者の社会復帰事業に協力したり、聖書の勉強をしたり、後進の指導と共に静かな余生をおくる。

1922(大正11)年4月30日

  • 荘田平五郎(74歳)、死去。享年、74歳。