慶應義塾大学
小幡篤次郎
おばたとくじろう
1842(天保13)年6月8日/7月15日 - 1905(明治38)年4月16日
1842(天保13)年6月8日/7月15日
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小幡篤次郎、 豊前国中津藩殿町(現在の大分県中津市殿町)に中津藩家老・小幡氏の中津藩士で供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。弟は、小幡甚三郎。
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小幡篤次郎、 幼時より、父・小幡篤蔵に四書五経を習う。
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小幡篤次郎、中津藩校「進脩館」入学、藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山より漢学を学ぶ。弟・小幡甚三郎と共に塾頭並に。
1864(元治元)年
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福澤諭吉(28-29歳)、郷里中津に赴き、小幡篤次郎・小幡甚三郎・浜野定四郎・三輪光五郎ら6名を江戸に連れてくる。
1864(元治元)年
1866(慶応2)年 - 1868(慶應4/明治元)年
1868(慶應4/明治元)年
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小幡篤次郎(23-24歳)、著書『天変地異』出版。当時広く信じられていた陰陽五行思想を退け、近代的な科学知識を広める目的で、雷、地震、彗星、虹といった自然現象について、「婦人小児の惑を」解くためのわかりやすい科学的解説を与える。学制発布時、小学校の教科書にふさわしい本の一つとして挙げられる。
1869(明治2)年
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福澤諭吉(33-34歳)、熊本藩の依頼により、本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳。
1872(明治5)年2月
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福澤諭吉「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」、『学問のすゝめ』初編刊行。1876(明治9)年11月25日にかけて順次刊行、17編出版をもって一応の完成をみる。初編のみ、小幡篤次郎共著。明治維新直後の日本人に対し、中世的な封建社会から近代民主主義国家への転換、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念など、平易な比喩を多用して説く。総発行部数300万部以上とされ、当時日本の人口が3,000万人程であったことから、全国民の10人に1人が手に取った計算に。
1876(明治9)年
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小幡篤次郎(33-34歳)、「東京師範学校中学師範科」創設に際し、校務参画。
1876(明治9)年
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小幡篤次郎(33-34歳)、ヨーロッパ・アメリカを歴遊。
1879(明治12)年
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文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関「東京学士会院」が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、西周、福澤諭吉、箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
1879(明治12)年
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小幡篤次郎(36-37歳)、初の「東京学士会院会員」に。
1880(明治13)年
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福澤諭吉(44-45歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、「慶應義塾」出身者を中心に、「交詢社」創立。名称は、「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。
1880(明治13)年
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小幡篤次郎(37-38歳)、福澤諭吉が提唱、日本最初の実業家社交クラブ「交詢社」創立に参画。幹事に。
1889(明治22)年10月
1890(明治23)年3月
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小幡篤次郎(47-48歳)、「慶應義塾」塾長に。
1890(明治23)年
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小幡篤次郎、日本郵船の役員に。
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小幡篤次郎、勲四等瑞宝章を受ける。
1893(明治26)年
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小幡篤次郎(50-51歳)、「慶應義塾」副社頭に。
1901(明治34)年
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小幡篤次郎、晩年、蔵書の半分を旧宅地とともに故郷・中津に寄附。図書館を設立するよう指示(現在の中津市立小幡記念図書館に)。蔵書の残り半分を、「慶應義塾」に寄附。
1905(明治38)年4月16日
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小幡篤次郎(62歳)、死去。享年、62歳。
