ダイガクコトハジメ - 象山書院/五月塾

象山書院/五月塾

 

象山書院創立 : 1839(天保10)年

五月塾創立 : 1851(嘉永4)年

創立者 : 佐久間象山

​前史  :

象山書院 → 五月塾

​「象山書院/五月塾」年表

1839(天保10)年

1842(天保13)年

  • 佐久間象山(30-31歳)、松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられる。顧問に抜擢され、アヘン戦争での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することに。魏源『海国図志』などを元に『海防八策』上書。これを機に、蘭学修得の必要に目覚る。

1844(弘化元)年

  • 佐久間象山(32-33歳)、オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努める。これにより、藩主・真田幸貫より洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられる。私塾「象山書院」を閉じ、江川英龍の下で兵学を学ぶ。

1850(嘉永3)年頃

  • 江戸中津藩邸蘭学塾佐久間象山象山書院」から受けた影響が大きく、マシュー・ペリー渡来に先んじ中津藩士が佐久間象山に洋式砲術を学ぶ。島津文三郎のように、直伝の免許を受けた者も。その後、杉亨二、薩摩藩士・松木弘安(後に寺島宗則)を招聘。

1850(嘉永3)年

  • 吉田松陰(19-20歳)、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知り、山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感。西洋兵学を学ぶため、九州遊学。次いで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事。

1851(嘉永4)年

  • 佐久間象山(39-40歳)、大砲鋳造に成功、西洋砲術家としての名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功、牛痘種の導入も企図。再び江戸に移住、木挽町に「五月塾」創立。砲術・兵学を教える。勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬ら後の俊才が続々と入門。

1851(嘉永4)年

  • 佐久間象山(39-40歳)、江戸にて、松前藩の依頼で鋳造した洋式大砲の演習を実施。砲身が爆発、大砲は全壊。観衆から大笑いされ、立ち会っていた松前藩の役人達からは「鋳造費用が無駄になった」と責め立てられる。しかし、「失敗するから成功がある」と述べて平然。「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいないのだから、諸大名はもっと僕に金をかけて稽古をさせるべきだ」と豪語、役人達を呆れさせる。

1854(嘉永7)年 - 1862(文久2)年

  • 佐久間象山(42-51歳)、門弟・吉田松陰がペリー再航の際に密航を企て、失敗。この事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄。その後、松代での蟄居を余儀なくされる。

  • 江戸中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。

1859(安政6)年

  • 福澤諭吉(23-24歳)、幕末時勢の中、中津藩より江戸出府を命じられ、「適塾」を去る。江戸中津藩邸に開かれていた「蘭学塾」の講師となるため、古川正雄(後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い、江戸へ。築地鉄砲洲にあった奥平家中屋敷に住み込み、蘭学塾「一小家塾」にて蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。「慶応義塾」の起源に。

1864(元治元)年

  • 佐久間象山(52-53歳)、一橋慶喜に招かれ、上洛。一橋慶喜に公武合体論と開国論を説く。当時京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」とされた佐久間象山には危険な行動であった。

1864(元治元)年7月11日/8月12日

  • 佐久間象山(53歳)、京都三条木屋町にて、前田伊右衛門・河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年、53歳。暗殺者・河上彦斎は後に佐久間象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまった。日本近代化を担う人材を多数輩出、幕末の動乱期に多大な影響を与える。