top of page

早稲田大学

市島謙吉

いちしまけんきち

1860(安政7)年2月17日/3月9日 - 1944(昭和19)年4月21日

1860(安政7)年2月17日/3月9日

  • 市島謙吉、越後国北蒲原郡水原(現在の新潟県阿賀野市)に角市市島家五代目・市島直太郎の長男として生まれる。幼名、雄之助。

  • 市島謙吉、商業で財を成した豪農一族で、文化資本に恵まれ、幼少より英才教育を受ける。

1870(明治3)年

  • 市島謙吉(9-10歳)、「水原県立広業館」で星野恒に漢学を学ぶ。

1871(明治4)年

  • 市島謙吉(10-11歳)、「新潟学校(現在の新潟大学教育学部)」入学、英語を学ぶ。

1874(明治7)年

1878(明治11)年

  • 市島謙吉、「東京大学文学部」在学3年次、に父・市島直太郎の養蚕事業が失敗。叔父・市島和泉巖吉に援助を受けるも、中退。

  • 市島謙吉、小野義眞の斡旋により、郵便汽船三菱会社運賃課長に。

1881(明治14)年

明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓らと共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。

1881(明治14)年10月12日

  • 大隈重信(43歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調、国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

1882(明治15)年2月

1882(明治15)年3月

1882(明治15)年3月

1882(明治15)年3月

  • 市島謙吉(21-22歳)、明治十四年の政変で下野していた大隈重信に就き、小野梓らと共に立憲改進党設立に参画。

​1882(明治15)年

  • 市島謙吉(21-22歳)、『内外政党事情』発刊も、翌年廃刊。

  • 市島謙吉、越後に戻り、『高田新聞』立ち上げ。論弁を振るう。

  • 市島謙吉、高田事件を記事で批判、改正新聞紙条例筆禍第一号として検挙、投獄。

1882(明治15)年10月21日

1882(明治15)年10月21日

  • 小野梓(30歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、「東京専門学校」創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。

  • 官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。

1885(明治18)年

1886(明治19)年

  • 市島謙吉(25-26歳)、新潟に戻り、新潟新聞に参加。大同団結運動反対の論陣を張り。政治活動を続ける。

1890(明治23)年

  • 市島謙吉(29-30歳)、第1回衆議院議員総選挙にて、新潟2区より立憲改進党から出馬。大同団結派の丹呉直平・加藤勝弥に破れ、落選。

1890(明治23)年 - 1891(明治24)年

  • 市島謙吉(29-31歳)、読売新聞社入社、高田早苗を継ぎ主筆に。

  • 市島謙吉、第2回・第3回衆議院議員総選挙に出馬も、落選。

1894(明治27)年10月

  • 市島謙吉(34歳)、第4回衆議院議員総選挙で立憲改進党から出馬、初当選。

1901(明治34)年

  • 市島謙吉(40-41歳)、体調悪化、衆議院議員辞職、政治活動を断念。高田早苗の薦めにより、「東京専門学校」図書館長に。

1902(明治35)年

  • 市島謙吉(41-42歳)、「早稲田大学」初代図書館長に。1917(大正6)年、早稲田騒動で辞するまで、和漢洋の蔵書の拡充に奔走。

1902(明治36)年

  • 市島謙吉(42-43歳)、日本文庫協会(後に日本図書館協会)設立、初代館長に。第一回図書館事項講習会、日本の司書制度の濫觴に。

1944(昭和19)年4月21日

bottom of page