早稲田大学

平沼淑郎

ひらぬまよしろう

1864(文久4)年2月7日/3月14日 - 1938(昭和13)年8月14日

1864(文久4)年2月7日/3月14日

  • 平沼淑郎、津山藩に津山藩士・平沼晋の長男として生まれる。

1884(明治17)年

1888(明治21)年

  • 平沼淑郎(23-24歳)、「第二高等学校」教授に。

1894(明治27)年

  • 平沼淑郎(29-30歳)、「市立大阪商業学校」校長に。

1917(大正6)年

  • 「早稲田騒動」、第2次大隈重信内閣が瓦解、高田早苗も文部大臣を辞職。再び高田早苗を「早稲田大学」学長に担ごうとする一派と、現学長・天野為之一派が対立。新聞で報道されると、学生や卒業生をも巻き込む大騒乱へと発展。9月4日、天野派と目された永井柳太郎など5教授と前学長秘書・橘静二が解任、学生6名が退学処分に。対して9月11日夜、天野派は早稲田劇場で高田派弾劾演説会を開催、石橋湛山や尾崎士郎らの演説の後、学生革新団による校門占拠事件にまで発展。しかし、事態を静観していた警視庁第一方面監察官正力松太郎の仲介により、革新団は2日後に大学から退去。天野為之は絶縁に近い形で、「早稲田大学」を離れることに。当分の間、学長を置かないことに決定。翌年1918(大正7)年9月、校規大幅改正、代表者理事・平沼淑郎が第3代学長に。

1918(大正7)年9月

  • 平沼淑郎(54歳)、早稲田騒動後、「早稲田大学」第3代学長に。

1938(昭和13)年3月26日

  • 平沼淑郎(74歳)、死去。享年、74歳。