早稲田大学
天野為之
あまのためゆき
1861(万延元)年12月27日/2月6日 - 1938(昭和13)年3月26日
1861(万延元)年12月27日/2月6日
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天野為之、江戸唐津藩上屋敷に唐津藩医・天野松庵と母・鏡の間に長男として生まれる。
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天野為之、明治維新前後に父・天野松庵、病死。母・鏡と弟・天野喜之助の三人で唐津に帰郷。同地で少年期を過ごす。天野家は貧窮を極める。
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天野為之(10代はじめ)、英学校にて、高橋是清より英語を学ぶ。
1877(明治10)年
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天野為之(15-16歳)、母・鏡が内職と公債の利息をやりくりしたことで、弟・天野喜之助と共に、「東京大学予備門」入学。
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天野為之、「東京大学文学部政治理財科」入学。
1881(明治14)年
明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓、矢野龍渓らと共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。
1881(明治14)年10月12日
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大隈重信(43歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調、国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。
1882(明治15)年10月21日
1882(明治15)年10月21日
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小野梓(30歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、「東京専門学校」創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。
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官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。
1880年中頃
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天野為之、改進党党員、「東京専門学校」講師として働く傍ら、『朝野新聞』や『読売新聞』など紙面に寄稿。
1886(明治19)年
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天野為之(24-25歳)、『経済原論』発表。日本人による完全書下ろしの経済書として、版を22回重ね、3万部を売り上げたロングセラーとして広く読まれる。執筆に当たり、ミル、ジョン・ネヴィル・ケインズ、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズなど、古典学派から多くが参考に供せられているほか、「東京専門学校」での講義用の資料が内容の基になる。「邦語による速成教育」を掲げる「東京専門学校」の活動が、出版の形で社会へ還元される。
1887(明治20)年
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天野為之(25-26歳)、 「陸軍経理学校」、「海軍主計学校」講師に。
1887(明治10)年
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天野為之(25-26歳)、町田忠治より、創立間もない東洋経済新報社の経営を引き継ぐ。以後10年間、経営基盤構築、社風形成に大きく寄与。在任中、植松考昭や三浦銕太郎など「東京専門学校」出身者たちが続々入社、活動の中心的役割を担うように。自身は「牛中山人」の筆名で社説など担当。保護貿易論に反対して自由貿易経済政策をとることを主張したり、日露戦争に際しては冷徹な視点からの論陣を張ったり、経済教育の重要性を説いたりした。
1889(明治22)年
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天野為之(27-28歳)、『日本理財雑誌』刊行。1年程で廃刊。
1890(明治23)年
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天野為之(28-29歳)、国会開設に合わせ行われた第1回衆議院議員総選挙にて、故郷佐賀2区より、改進党の流れを汲む佐賀郷党会に属して立候補、当選。
1891(明治24)年
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天野為之(29-30歳)、国会にて予算委員として活動。予算削減のため、「第一高等中学校」ほか第五までの高等中学校、「女子高等師範学校」、「東京音楽学校」を廃止する案が出た際、これに異議を唱え、撤回させる。
1892(明治25)年
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天野為之(30-31歳)、第2回衆議院議員総選挙に出馬、大規模な選挙干渉に巻き込まれ、落選。以後、政界から身を引く。
1897(明治30)年
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天野為之(35-36歳)、東洋経済新報社第2代主幹に。
1898(明治31)年
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天野為之(36-37歳)、法学博士に。
1904(明治37)年
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「早稲田大学」、専門学校令に基づき、大学に。大学部に商科設置。
1904(明治37)年
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天野為之(42-43歳)、新設の「早稲田大学商科」科長に。開放自由主義経済実現のため、国民に経済理論や知識の普及が必要不可欠であると考え、経済教育の拡充を模索。
1904(明治37)年
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天野為之(42-43歳)、新設の「早稲田大学商科」科長と共に、「早稲田実業学校」校長を兼ねる。中等教育の段階で専門学校に匹敵する水準の教育を施すことを志向。
1915(大正4)年8月
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天野為之(54歳)、「早稲田大学」第2代学長に。
1915(大正4)年11月
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天野為之(54歳)、勲三等瑞宝章を受ける。
1917(大正6)年
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「早稲田騒動」、第2次大隈重信内閣が瓦解、高田早苗も文部大臣を辞職。再び高田早苗を「早稲田大学」学長に担ごうとする一派と、現学長・天野為之一派が対立。新聞で報道されると、学生や卒業生をも巻き込む大騒乱へと発展。9月4日、天野派と目された永井柳太郎など5教授と前学長秘書・橘静二が解任、学生6名が退学処分に。対して9月11日夜、天野派は早稲田劇場で高田派弾劾演説会を開催、石橋湛山や尾崎士郎らの演説の後、学生革新団による校門占拠事件にまで発展。しかし、事態を静観していた警視庁第一方面監察官正力松太郎の仲介により、革新団は2日後に大学から退去。天野為之は絶縁に近い形で、「早稲田大学」を離れることに。当分の間、学長を置かないことに決定。翌年1918(大正7)年9月、校規大幅改正、代表者理事・平沼淑郎が第3代学長に。
1917(大正6)年
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天野為之(55-56歳)、早稲田騒動後、再び「早稲田実業学校」に戻り、校長に。学校運営に尽力。「早稲田実業学校」は「早稲田大学」と別の路線を歩むことに。
1938(昭和13)年3月26日
