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ダイガクコトハジメ - 天野為之

天野為之

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  • 1861(万延2/文久元)年2月6日(旧暦・12月27日) 天野為之(1歳)、江戸唐津藩上屋敷に唐津藩医・天野松庵と母・鏡の間に長男として生まれる。

  • 天野為之、明治維新前後に父・天野松庵、病死。母・鏡と弟・天野喜之助の三人で唐津に帰郷。同地で少年期を過ごす。天野家は貧窮を極める。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1871(明治4)年 高橋是清(19歳)、唐津藩の英語学校・耐恒寮教員に。辰野金吾・曽禰達蔵・大島小太郎・天野為之・掛下重次郎・田邊新之助らを教える。

  • 天野為之(10代はじめ)、英学校にて、高橋是清より英語を学ぶ。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1877(明治10)年 天野為之(17歳)、母・鏡が内職と公債の利息をやりくりしたことで、弟・天野喜之助と共に、東京大学予備門入学。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 大隈英麿留学時代に得た学識を活用、理学系の学校を興すことを大隈重信に持ち掛ける。鷗渡会同志との協議の結果、政治経済や法律を教授する学校の設立に方針転換。

  • 1882(明治15)年4月 小野梓(31歳)大隈重信より鷗渡会会員に学校設立の話が持ちかけられる。来る立憲政治の指導的人材養成を主たる目的として学校設立を構想。鷗渡会が創立を支援。

  • 1882(明治15)年10月21日 小野梓(31歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、東京専門学校(現・早稲田大学)創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。

  • 東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。

 

  • 1882(明治15)年 天野為之(22歳)、東京専門学校創立・経営参画。専任講師に。学校の経営・教育に情熱を注ぐ。

  • 1882(明治15)年 市島謙吉(23歳)東京専門学校創立参画。『内外政党事情』発刊も、翌年廃刊。越後に戻り、『高田新聞』立ち上げ。論弁を振るう。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1880年中頃、天野為之、立憲改進党党員・東京専門学校講師として働く傍ら、『朝野新聞』や『読売新聞』など紙面に寄稿。

  • 1886(明治19)年 天野為之(26歳)、『経済原論』発表。日本人による完全書下ろしの経済書として、版を22回重ね、3万部を売り上げたロングセラーとして広く読まれる。執筆に当たり、ミル、ジョン・ネヴィル・ケインズ、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズなど、古典学派から多くが参考に供せられているほか、東京専門学校での講義用の資料が内容の基になる。「邦語による速成教育」を掲げる東京専門学校の活動が、出版の形で社会へ還元される。

  • 1887(明治20)年 天野為之(27歳)、 陸軍経理学校海軍主計学校講師に。

  • 1888(明治21)年2月 大隈重信(51歳)、外交手腕を評価する伊藤博文により、不平等条約改正のため、外務大臣を任される。

  • 1888(明治21)年 大隈重信(51歳)、黒田清隆が組閣、外務大臣留任。外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗にあう。

  • 1889(明治22)年 天野為之(29歳)、『日本理財雑誌』刊行。1年程で廃刊。

  • 1890(明治23)年 天野為之(30歳)、国会開設に合わせ行われた第1回衆議院議員総選挙にて、故郷佐賀2区より改進党の流れを汲む佐賀郷党会に属して立候補。当選。

  • 1890(明治23)年 ​高田早苗(31歳)、第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区(現・川越市)から立候補、全国最年少で当選。立憲改進党系政党に参加、通算6期務める。

  • 1892(明治25)年 天野為之(32歳)、第2回衆議院議員総選挙に出馬、大規模な選挙干渉に巻き込まれ、落選。以後、政界から身を引く。

  • 1896(明治29)年 - 1897(明治30)年 大隈重信(59-60歳)、 第2次松方正義内閣で再び外務大臣に。松隈内閣と呼ばれる。薩摩勢と対立。翌年1897(明治30)年、辞職。

  • 1897(明治30)年 天野為之(37歳)、町田忠治より、創立間もない東洋経済新報社の経営を引き継ぐ。東洋経済新報社第2代主幹に。以後10年間、経営基盤構築・社風形成に大きく寄与。在任中、植松考昭・三浦銕太郎など東京専門学校出身者たちが続々入社、活動の中心的役割を担うように。自身は「牛中山人」の筆名で社説など担当。保護貿易論に反対して自由貿易経済政策をとることを主張したり、日露戦争に際しては冷徹な視点からの論陣を張ったり、経済教育の重要性を説く。​

  • 1898(明治31)年6月30日-11月8日 大隈重信(60歳)、 板垣退助らと憲政党を結成。薩長藩閥以外より初の内閣総理大臣に。日本初の政党内閣を組閣。「隈板内閣」と呼ばれる。旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じる。また、文部大臣・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職、後任人事を巡り対立がさらに激化。後任の文部大臣文相に旧進歩党・犬養毅が就任したことに不満を持った旧自由党・星亨が、一方的に憲政党の解党を宣言。新たな憲政党を結成。加えて、アメリカのハワイ併合に対し、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招く。11月8日、内閣総辞職。旧進歩党をまとめ、憲政本党を率いることに。

  • 1898(明治31)年 板垣退助(62歳)、対立していた大隈重信の進歩党と合同、憲政党を組織。日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣に内務大臣として入閣。「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、内紛激しく、4か月で総辞職せざるを得なくなる。

  • 1898(明治31)年 ​高田早苗(39歳)、第1次大隈内閣で、文部省参事官・高等学務局長・参与官兼専門学務局長に。

  • 1898(明治31)年 天野為之(38歳)、法学博士に。

  • 1902(明治35)年9月2日東京専門学校、専門学校令に基づき、専門学校に。将来の大学昇格を展望して組織改編、早稲田大学に改称。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1903(明治36)年 ​高田早苗(44歳)、議会解散後、政界からしばらく離れる。

  • 1904(明治37)年4月専門学校令に基づき、早稲田大学発足。大学部に政治経済学科・法学科・文学科に加えて、商科新設。

  • 1904(明治37)年 天野為之(44歳)、新設の早稲田大学商科科長に。開放自由主義経済実現のため、国民に経済理論や知識の普及が必要不可欠であると考え、経済教育の拡充を模索。

  • 1904(明治37)年 天野為之(44歳)、新設の早稲田大学商科科長と共に、早稲田実業学校長を兼ねる。中等教育の段階で専門学校に匹敵する水準の教育を施すことを志向。

  • 1914(大正3)年4月16日 - 1916(大正5)年10月9日 大隈重信(77-79歳)、第1次護憲運動が興ると政界復帰。シーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受け、内閣総理大臣に。第2次大隈重信内閣を組閣。1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が勃発、中国大陸での権益確保を求め、対独宣戦布告。

  • 1915(大正4)年8月 天野為之(55歳)、早稲田大学第2代学長に。

  • 1915(大正4)年11月 天野為之(55歳)、勲三等瑞宝章を受章。

  • 1917(大正6)年、早稲田騒動、第2次大隈重信内閣が瓦解、高田早苗も文部大臣を辞職。再び高田早苗早稲田大学学長に担ごうとする一派と、現学長・天野為之一派が対立。新聞で報道されると、学生や卒業生をも巻き込む大騒乱へと発展。9月4日、天野派と目された永井柳太郎など5教授と前学長秘書・橘静二が解任、学生6名が退学処分に。対して9月11日夜、天野派は早稲田劇場で高田派弾劾演説会を開催。石橋湛山・尾崎士郎らの演説の後、学生革新団による校門占拠事件にまで発展。しかし、事態を静観していた警視庁第一方面監察官正力松太郎の仲介により、革新団は2日後に大学から退去。天野為之は絶縁に近い形で、早稲田大学を離れることに。当分の間、学長を置かないことに決定。翌年1918(大正7)年9月、校規大幅改正、代表者理事・平沼淑郎が第3代学長に。

  • 1917(大正6)年 天野為之(57歳)、早稲田騒動で早稲田大学第2代学長辞任後、再び早稲田実業学校に戻り、校長に。学校運営に尽力。早稲田実業学校は早稲田大学と別の路線を歩むことに。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1920(大正9)年、早稲田大学、大学令に基づき、大学に。政治経済学部・法学部・文学部・商学部・理工学部設置。大学院設置。早稲田高等学院設置。

  • 1922(大正11)年1月10日 大隈重信(85歳)、死去。享年85歳。日比谷公園で国民葬が挙行され、約30万人の一般市民が参列。

  • 1922(大正11)年 市島謙吉(63歳)大隈重信の死に際し、「世界的デモクラシーの政治家である大隈は、国民葬の礼を持って送ることがふさわしい」と発表。日比谷公園にて国民葬を挙行、葬儀委員長を務める。

天野為之

あまのためゆき

1861(万延元)年2月6日(旧暦・12月27日) - 1938(昭和13)年3月26日

経済学者・経済評論家、法学博士、鷗渡会・立憲改進党、東京専門学校(現・早稲田大学)創立参加・教授・早稲田大学商科長・第2代学長、早稲田実業学校長、陸軍経理学校海軍主計学校講師、『経済原論』ほか著作、東洋経済新報社第2代主幹、東京専門学校創立者の大隈重信小野梓を支え「早稲田四尊」と称される、「明治前期の三大経済学者」

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