早稲田大学

坪内逍遥

つぼうちしょうよう

1859(安政6)年5月22日/6月22日 - 1935(昭和10)年2月28日

1859(安政6)年5月22日/6月22日

  • 坪内逍遥、美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に父・尾張藩士太田代官所手代の子として生まれる。明治維新、実家のある名古屋の笹島村へ戻る。

  • 坪内逍遥(11歳頃)、父から漢学を学ぶ。また母の影響を受け、貸本屋通い、読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しむ。滝沢馬琴に心酔。

  • 坪内逍遥、「愛知外国語学校」入学。

1876(明治9)年

  • 坪内逍遥、「東京大学文学部政治科」入学。西洋文学を学ぶ。高田早苗と無二の親友に。高田早苗の勧めで、詩人の作品の他に西洋小説も広く読むように。

  • 坪内逍遥、高田早苗や市島春城・小田一郎・石渡敏一などと共に、神保町の天ぷら屋に通う。この時の経験が、後の『当世書生気質』の題材に。

1880(明治13)年

  • 坪内逍遥(20-21歳)、ウォルター・スコット『ランマームーアの花嫁』の翻訳、『春風情話』刊行。​​

1882(明治15)年10月21日

1882(明治15)年10月21日

  • 小野梓(30歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、「東京専門学校」創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。

1882(明治15)年10月21日

  • 官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。

1883(明治16)年

1884(明治17)年

  • 坪内逍遥(24-25歳)、ウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳、『泰西活劇 春窓綺話』出版。

1884(明治17)年

  • 坪内逍遥(24-25歳)、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳、『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』出版。

1885(明治18)年

  • 坪内逍遥(25-26歳)、評論『小説神髄』発表。小説を美術・芸術として発展させるため、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定。「小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐ」と論じる。この心理的写実主義により、日本の近代文学の誕生に大きく貢献。また、その理論を実践すべく小説『当世書生気質』著作。しかし、自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、近代文学観が不完全なものに終っていることを、後に二葉亭四迷『小説総論』『浮雲』によって批判的に示される。

1886(明治19)年2月

  • 二葉亭四迷(21-22歳)坪内逍遥を訪ね、以後毎週通うように。坪内逍遥の勧めで『小説総論』を『中央学術雑誌』に発表。また、ツルゲーネフ『父と子』の一部を訳していたが、未発表に終わる。

1887(明治20)年

  • 二葉亭四迷(22-23歳)、『新編浮雲』第一篇を、坪内雄蔵(坪内逍遥の本名)名義で刊行。「はしがき」で初めて、「二葉亭四迷」と名乗る。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対し、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。

1889(明治22)年

  • 坪内逍遥(29-30歳)、徳富蘇峰の依頼により、『国民之友』に『細君』発表。以後、小説執筆を断つ。

1890(明治23)年 -

  • 坪内逍遥(30-31歳)、シェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。

1890(明治23)年

  • 坪内逍遥(30-31歳)、「東京専門学校」に文学部誕生。シェイクスピア講義は「東京専門学校」独自のものであり、花形講師に。後に、「早稲田といえば文科」と言われるほどに。

1891(明治24)年

  • 坪内逍遥(31-32歳)、雑誌『早稲田文学』創刊。

1897(明治30)年頃

  • 坪内逍遥(37-38歳)、戯曲として新歌舞伎『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方』など書く。演劇の近代化に貢献。

1906(明治39)年

  • 坪内逍遥(46-47歳)、島村抱月らと文芸協会開設。新劇運動の先駆けに。

1909(明治42)年 - 1928(昭和3)年

  • 坪内逍遥(49-69歳)、『ハムレット』に始まり、『詩編其二』に至るまで。独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行。

1913(大正2)年

  • 坪内逍遥(53-54歳)、戯曲『役の行者』完成。出版予定も、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件があり、急遽出版中止。

1913(大正2)年

1916(大正5)年 - 1917(大正6)年

  • 坪内逍遥(56-58歳)、『役の行者の改訂作『女魔神』を『新演芸』誌に発表。翌年『役の行者』の題で出版。

1920(大正9)年

  • 坪内逍遥(60-61歳)、吉江喬松により、『役の行者』を「レルミット」(l'Ermite) の題でフランス語訳、出版。詩人アンリィ・ド・レニュらにより賞賛を得る。

1922(大正11)年

  • 坪内逍遥(62-63歳)、再改訂作『行者と女魔』発表。

1924(大正13)年

  • 坪内逍遥(64-65歳)、初稿『役の行者』、築地小劇場で最初の創作劇として上演、高い世評を得る。

1932(昭和7)年

  • 坪内逍遥(72-73歳)、挿絵も自身の手による絵巻物『神変大菩薩伝』発表。

1935(昭和10)年2月28日