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早稲田大学

小野梓

おのあずさ

1852(嘉永5)年2月20日/3月10日 - 1886(明治19)年1月11日

1852(嘉永5)年2月20日/3月10日 - 1886(明治19)年1月11日

  • 小野梓、土佐国宿毛(現在の高知県宿毛市)に軽格武士・小野節吉と母・助野の次男として生まれる。

1869(明治2)年

1871(明治4)年 - 1874(明治7)年

  • 小野梓(18-22歳)、米国および英国に私費留学。ベンサムの功利主義の影響を強く受ける。

1874(明治7)年

  • 小野梓(21-22歳)、万里小路通房・岩崎小二郎・尾崎三良・大内青巒・広瀬進一・赤松連城と共に、啓蒙団体「共存同衆」結成。『共存雑誌』発刊、西洋思想の普及に努める。

1876(明治9)年

  • 小野梓(23-24歳)、司法省官吏に。以後、司法省少丞、太政官少書記官、会計検査院検査官など歴任、大隈重信の知遇を得る。

1881(明治14)年

明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓らと共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。

1881(明治14)年10月12日

  • 大隈重信(43歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調、国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

1881(明治14)年

  • 小野梓(29歳)、明治十四年の政変、司法省官吏を辞職。下野。

1882(明治15)年2月

  • 小野梓(29歳)、「東京大学」学生を中心に鷗渡会設立。

  • 高田早苗、法学者・小野梓と知り合い、​鷗渡会に加わる。

  • 天野為之、「東京大学」在学中に小野梓らと知り合い、政治結社・鴎渡会に加わる。明治十四年の政変後、そのまま立憲改進党に入党。

1882(明治15)年3月

1882(明治15)年3月

  • 小野梓(29-30歳)、大隈重信の幕下として、「東京大学」学生を中心とする鷗渡会を率い、立憲改進党結成に参加。

1882(明治15)年3月

1882(明治15)年10月21日

1882(明治15)年10月21日

  • 小野梓(30歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、「東京専門学校」創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。

1882(明治15)年10月21日

  • 官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。

1883(明治16)年

  • 小野梓(30-31歳)、東洋館(後の冨山房)設立、洋書取次ぎや政治・経済書の出版を行う。

1885(明治16)年

  • 小野梓(30-31歳)、私擬憲法『国憲私案』起草。イギリス流の立憲君主制実現を目指す。

1885(明治18)年

  • 小野梓(32-33歳)、 『国憲汎論』著述。

1886(明治19)年1月11日

  • 小野梓(33歳)、死去。享年、33歳。

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