ダイガクコトハジメ - 大学校(大学)・文部省 - 創立者・教育者 - 大木喬任
大学校(大学)・文部省
大木喬任
おおきたかとう
1832(天保3)年3月23日/4月23日 - 1899(明治32)年6月26日
1832(天保3)年3月23日/4月23日
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大木喬任、肥前国赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に佐賀藩45石の藩士・大木知喬の長男として生まれる。
1842(天保13)年
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大木喬任(9-10歳)、父・大木知喬が亡くなる。以後、母・シカ子の手で育てられる。
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大木喬任、水戸藩・但馬国出石藩の同名の藩校と並んで「天下三弘道館」と称された、佐賀藩校「弘道館(学館)」で学ぶ。
1850(嘉永3)年
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大木喬任(17-18歳)、副島種臣らと共に、枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に、江藤新平や大隈重信、島義勇らも加わる。勤王派として藩政改革を推進、藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせず。この義祭同盟より、明治維新に大きな影響を与えた人材が多数輩出された。
1860(万延元)年
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大木喬任(27-28歳)、藩校・弘道館から選ばれ、江戸に遊学。
1868(明治元)年
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大木喬任(35-36歳)、明治新政府が樹立、大隈重信・副島種臣・江藤新平らと共に出仕。徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務める。
1868(慶応4)年7月17日/9月3日
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大木喬任、岩倉具視に対し、江藤新平と連名で江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言。献言が認められ、明治天皇が行幸、江戸は東京と改称される。
1871(明治4)年7月18日/9月2日
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大木喬任(38-39歳)、明治新政府が太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
1872(明治5)年
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大木喬任(39-40歳)、教部卿を兼任。
1872(明治5)年8月2日/9月4日公布
学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
1873(明治6)年10月24日-10月25日
明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
1873(明治6)年
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大木喬任(40-41歳)、参議兼司法卿に就任。
1876(明治9)年
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大木喬任(43-44歳)、神風連の乱、萩の乱の事後処理にあたる。反乱士族を処分。
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大木喬任、民法編纂総裁として、法典編纂に関わる。
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大木喬任、元老院議長、参議など要職を歴任。
1884(明治17)年
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大木喬任(51-52歳)、華族令施行により、伯爵に叙せられる。
1884(明治17)年12月14日
1888(明治21)年
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大木喬任(55-56歳)、枢密顧問官に就任。
1892(明治25)年
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大木喬任(59-60歳)、枢密院議長に再任。
1899(明治32)年6月26日
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大木喬任(67歳)、死去。享年、67歳。教育制度や法典編纂の確立に尽力したことより、「明治の六大教育家」の1人に数えられる。
