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日本女子大学

成瀬仁蔵

なるせじんぞう

1858(安政5)年6月23日/8月2日 - 1919(大正8)年3月4日

1858(安政5)年6月23日/8月2日

  • 成瀬仁蔵、周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に長州藩毛利家一門・吉敷毛利家に仕える下級武士・成瀬小左衛門と母・歌子の間に長男として生まれる。

  • 成瀬仁蔵、郷校「憲章館」に学ぶ。

  • 成瀬仁蔵(7歳)、母・歌子死去。

  • 成瀬仁蔵(16歳)、弟と父・成瀬小左衛門死去。死に向き合う体験を持つ。

1874(明治7)年

  • 成瀬仁蔵(15-16歳)、調剤師として医家に住み込む。

1876(明治9)年

  • 成瀬仁蔵(17-18歳)、「山口師範学校」2期生卒業。小学校教員に。

1877(明治10年)

  • 澤山保羅(24-25歳)、妹・いまが吉敷で死去。葬儀のため、帰京。自身に心酔する成瀬仁蔵という青年の訪問を受ける。同道、共に神戸へ。

1877(明治10)年

  • 成瀬仁蔵(18-19歳)、アメリカ留学帰国後牧師になった同郷・澤山保羅に感化を受け、山口を離れる。

1878(明治11)年

  • 成瀬仁蔵(19-20歳)、澤山保羅に導かれ、大阪浪花教会でキリスト教受洗。

1878(明治11)年

  • 澤山保羅(25-26歳)成瀬仁蔵ら教会信徒有志の協力を得て、リスト教主義教育を建学の精神とする「梅花女学校」設立。牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現在の大阪教会)教会員の協力があったことから、「梅花」と名付ける。大阪で最初の女学校に。成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す。

1878(明治11)年 - 1882(明治15)年

  • 成瀬仁蔵(19-24歳)、澤山保羅のキリスト教主義教育を建学の精神とする「梅花女学校」設立に教会信徒有志と共に協力、主任教師に。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職に熱心であったが、伝道活動への意思強く、1882(明治15)年に卒業生を送ると教職を辞職。牧師としての活動をはじめる。

1883(明治16)年

  • 成瀬仁蔵(24-25歳)、澤山保羅の浪花教会を拠点に、奈良県生駒郡郡山町(現在の大和郡山市)の出張伝道所へ移る。

1884(明治17)年

  • 成瀬仁蔵(25-26歳)、郡山教会の独立を許され、初代牧師に。布教活動を行う一方、女子教育を研究。

1886(明治19)年

  • 成瀬仁蔵(27-28歳)、病床の澤山保羅より赴任を懇願され、新潟に移る。新潟第一基督教会(現在の日本基督教団新潟教会)設立。

1887(明治20)年

  • 成瀬仁蔵(28-29歳)、新潟は女子の就学状況が不振であり、女学校設立案が出されるとこれに参加、「私立新潟英学校」を基礎に設立された「新潟女学校」校長に。

  • 成瀬仁蔵、同じく「私立新潟英学校」を基礎に設立された男子中等教育機関「北越学館」に関わる。教師として招かれた内村鑑三が生徒の支持を得て分離する動きを見せると、これに反論、解任を求める(北越学館事件)。

1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月

  • 成瀬仁蔵(31-35歳)、アメリカ留学。「アンドーバー神学校」、「クラーク大学」にて教育学や社会学、キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察、女子教育研究。

1894(明治27)年

  • 成瀬仁蔵(35-36歳)、帰国後、「梅花女学校」第5代校長に。女子高等教育機関の設立に着手。

1896(明治29)年

  • 成瀬仁蔵(37-38歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。「日本女子大学校創設之趣旨」発表。

1896(明治29)年

  • 広岡浅子(46-47歳)、土倉庄三郎の紹介により、「梅花女学校」校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感、金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。

1897(明治30)年3月24日

1897(明治30)年3月24日

1900(明治33)年

  • 成瀬仁蔵(41-42歳)、大阪市東区清水谷東之町で学校建設を進めたが、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地5,520坪を寄贈される。

1900(明治33)年

1901(明治34)年4月20日

  • 成瀬仁蔵(42-43歳)、日本で初めての組織的な女子高等教育機関「日本女子大学校」創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信

1912(明治45)年

  • 成瀬仁蔵(53-54歳)、渋沢栄一、森村市左衛門、姉崎正治らと共に、諸宗教・道徳などが、同一の目的に向かって相互理解と協力を推進することを期した会、帰一協会を設立。会員には、江原素六、島田三郎、新渡戸稲造、石橋智信、今岡信一良、高木八尺やM・C・ハリス、D・C・グリーン、C・マコウリー、W・アキスリングなど宣教師たちも参加。

  • 成瀬仁蔵、晩年、キリスト教信仰を捨て、混交宗教を奉じる。

1919(大正8)年3月4日

  • 成瀬仁蔵(60歳)、死去。享年、60歳。

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