ダイガクコトハジメ - 日本女子大学
日本女子大学
創立 : 1901(明治34)年4月20日
大学設立: 1948(昭和23)年
創立者 : 成瀬仁蔵
前史 :
日本女子大学校 → 日本女子大学
「日本女子大学」年表
1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月
-
成瀬仁蔵(31-35歳)、アメリカ留学。「アンドーバー神学校」、「クラーク大学」にて教育学や社会学、キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察、女子教育研究。
1894(明治27)年
-
成瀬仁蔵(35-36歳)、帰国後、「梅花女学校」第5代校長に。女子高等教育機関の設立に着手。
1896(明治29)年
-
成瀬仁蔵(37-38歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。「日本女子大学校創設之趣旨」発表。
1896(明治29)年
-
広岡浅子(46-47歳)、土倉庄三郎の紹介により、「梅花女学校」校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感、金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。
1897(明治30)年3月24日
-
成瀬仁蔵(38歳)、「日本女子大学校」第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、「学習院」院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
1897(明治30)年3月24日
1899(明治32)年2月7日公布 4月1日施行
高等女学校令、従来、中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1900(明治33)年
-
成瀬仁蔵(41-42歳)、大阪市東区清水谷東之町で学校建設を進めたが、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地5,520坪を寄贈される。
1900(明治33)年
-
広岡浅子(50-51歳)、「日本女子大学校」学校建設に向け、広岡家、実家の三井家一門に働きかけ。三井家から目白台の土地5,520坪を寄贈させるに至る。
1901(明治34)年4月20日
-
成瀬仁蔵(42-43歳)、日本で初めての組織的な女子高等教育機関「日本女子大学校」創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
1901(明治34)年4月20日
-
渋沢栄一(60-61歳)、「日本女子大学校」開校。会計監督に。
1901(明治34)年
-
嘉納治五郎(40-41歳)、「日本女子大学校」創立委員に。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1904(明治37)年
-
専門学校令に基づき、専門学校として認可。
1931(昭和6)年11月11日
-
渋沢栄一(91歳)、「日本女子大学校」第3代校長に。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。
1948(昭和23)年
-
学制改革により、新制大学として「日本女子大学」設立。家政学部・文学部設置。