ダイガクコトハジメ - 松下村塾
松下村塾
創立 : 1842(天保13)年
前史 :
松下村塾
「松下村塾」年表
1842(天保13)年
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玉木文之進(31-32歳)、畳一間の私塾を開き、「松下村塾」と名付ける。少年だった甥・吉田松陰も入門。指導は非常に厳格なもので、吉田松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。親戚の乃木希典も教育を受ける。
1842(天保13)年
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吉田松陰(11-12歳)、叔父・玉木文之進が開いた「松下村塾」で指導を受ける。
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吉田松陰の外叔・久保五郎左衛門が「松下村塾」の名を継承、塾生の教育にあたる。武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れる。
1857(安政4)年
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吉田松陰(26-27歳)、叔父・玉木文之進が主宰する「松下村塾」の名を引き継ぎ、杉家の敷地に「松下村塾」開塾。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。
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高杉晋作、久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれる。また、吉田稔麿を入れて「松陰門下の三秀」と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称される。
1857(安政4)年2月
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伊藤博文(15歳)、江戸湾警備のため相模に派遣。上司として赴任した来原良蔵と昵懇に。その紹介で吉田松陰の「松下村塾」入門。友人の吉田稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず。戸外で立ったまま聴講。
1858(安政5)年
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吉田松陰(27-28歳)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒。老中首座・間部詮勝が孝明天皇への弁明の為に上洛するのをとらえ、条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ討ち取るという間部要撃策を提言。計画実行のため大砲など武器弾薬の借用を長州藩に願い出るも拒絶される。
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吉田松陰(27-28歳)、大原重徳と共に、参勤交代で伏見を通る長州藩主・毛利敬親を待ち受け京に入る、伏見要駕策への参加を計画。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子の多くは反対もしくは自重を唱え、失望。間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり、草莽崛起論を唱えるように。さらに、幕府が日本最大の障害になっていると批判、倒幕をも持ちかける。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。
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吉田松蔭が野山獄に再投獄。また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため、「松下村塾」は中絶。
1859(安政6)年
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吉田松陰(28-29歳)、梅田雲浜が幕府に捕縛される。梅田雲浜の萩滞在時に面会していること、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が梅田雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送。伝馬町牢屋敷に投獄される。間部要撃策を自ら進んで告白、斬首刑が宣告される。
1859(安政6)年10月27日/11月21日
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吉田松陰(29歳)、伝馬町牢屋敷にて死刑執行。享年、29歳。
1866(慶応2)年
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「松下村塾」再開、馬島甫仙、河合惣太らが教授に。
1871(明治4)年
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玉木文之進(60-61歳)、再び「松下村塾」塾頭に。場所を自宅に移す。子弟の教育に努める。
1876(明治9)年11月6日
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玉木文之進(66歳)、前原一誠による萩の乱に養子・玉木正誼ほか門弟の多くが参加。責任を取る形で先祖の墓の前で自害。享年、66歳。「松下村塾」は再度途絶。
1880(明治13)年頃
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吉田松蔭の兄・杉民治が「松下村塾」を再開。
1892(明治25)年頃
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吉田松蔭の兄・杉民治が老年に至り、「松下村塾」閉塾。