工部大学校

伊藤博文

いとうひろぶみ

1841(天保12)年9月2日/10月16日 - 1909(明治42)年10月26日

1841(天保12)年9月2日/10月16日

  • 伊藤博文、周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)に百姓・林十蔵と琴子の間に長男として生まれる。幼名、利助。

1846(弘化5)年

  • 伊藤博文(4-5歳)、稼業破産、父・林十蔵が萩へ単身赴任。母と共に母の実家へ預けられる。

1849(嘉永2)年

  • 伊藤博文(7-8歳)、父・林十蔵に呼び戻され、萩に移住。久保五郎左衛門の塾に通う。同門に、吉田稔麿。

  • 伊藤博文(12-13歳)、家が貧しかったため、長州藩蔵元付中間・水井武兵衛の養子に。水井武兵衛が周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、林十蔵父子も足軽に。

1857(安政4)年2月

  • 伊藤博文(15歳)、江戸湾警備のため相模に派遣。上司として赴任した来原良蔵と昵懇に。その紹介で吉田松陰の「松下村塾」入門。友人の吉田稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず。戸外で立ったまま聴講。

  • 伊藤博文、吉田松陰から俊英の俊を与えられ、伊藤俊輔と改名。さらに春輔と改名。

1858(安政5)年7月-10月

  • 伊藤博文(16歳)、吉田松陰の推薦により、長州藩の京都派遣に随行。

1859(安政6)年-6月

  • 伊藤博文(17歳)、来原良蔵に従い、長崎遊学。

1859(安政6)年10月

  • 伊藤博文(18歳)、来原良蔵の紹介で来原良蔵の義兄・桂小五郎(後の木戸孝允)の従者に。長州藩の江戸屋敷に移り住む。ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結ぶ。

1859(安政6)年10月

  • 伊藤博文(18歳)、安政の大獄、師匠・吉田松陰が斬首刑に。桂小五郎の手附として江戸詰めしており、師の遺骸を引き取ることに。この時、自分がしていた帯を遺体に巻く。

1861(万延元)年

  • 伊藤博文(19-20歳)、桂小五郎を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる。一方、海外渡航も考えるように。来原良蔵に宛てた手紙でイギリス留学を志願。

1862(文久2)年

  • 伊藤博文(20歳)、公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策。

1862(文久2)年8月

  • 伊藤博文(20歳)、自害した来原良蔵の葬儀参列。

1862(文久2)年12月

  • 伊藤博文(21歳)、英国公使館焼き討ち事件に参加。山尾庸三と共に、塙忠宝・加藤甲次郎を暗殺。尊王攘夷の志士として活動。

1863(文久3)年5月12日 - 1864(元治元)年6月

  • 伊藤博文(21-22歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。

  • 伊藤博文(21-22歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに、開国論に転じる。

  • 伊藤博文(22歳)、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、井上馨と共に急ぎ帰国。

1863(文久3)年5月12日 - 1868(明治元)年

  • 山尾庸三(25-31歳)、藩命により陪臣から士籍に。密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。ロンドンにて英語と基礎科学を学んだ後、グラスゴーにて造船を中心とした徒弟制訓練を受ける。アンダーソン・カレッジの音楽教師であったコリン・ブラウンの家に下宿、講義を受ける。

  • 森有礼、五代友厚らと共にイギリスへ密航、留学(薩摩藩第一次英国留学生)。ロンドンにて、長州五傑(井上聞多/井上馨、遠藤謹助、山尾庸三伊藤博文、野村弥吉/井上勝)と出会う。

1864(元治元)年6月10日

  • 伊藤博文(22歳)、横浜上陸、長州藩へ戻る。戦争回避に奔走。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発。長州の砲台は徹底的に破壊される。

  • 伊藤博文(22歳)、下関戦争後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。長州藩世子・毛利元徳へ経過報告、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉晋作と共に行方をくらます。この和平交渉において、天皇と将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをアーネスト・サトウに手渡したことにより、各国は賠償金を江戸幕府に要求するように。

1864(元治元)年9月

  • 伊藤博文(22歳)、英国公使オールコックらとの交渉で井上馨と共に長州藩の外国応接係に。下関戦争と禁門の変で大損害を被った長州藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭。攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まる。攘夷も幕府にも反対、どちらの派閥にも加わらなかったが、井上馨が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらます。

1864(元治元)年11月-12月

  • 伊藤博文(23歳)、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉晋作らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。一番に駆けつける。「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やし、俗論派を倒す。正義派が藩政を握る。

1865(慶応元)年

  • 伊藤博文(23-24歳)、長州藩の実権を握った桂小五郎の要請により、薩摩藩や外国商人との武器購入及び交渉が主な仕事に。第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できず、暇を持て余す。

1868(慶応4-明治元)年

  • 伊藤博文(26-27歳)、外国事務総裁・東久世通禧に見出され、神戸事件と堺事件の解決に奔走。出世の足掛かりに。

明治維新後

  • 伊藤博文、博文と改名。長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治新政府の様々な要職を歴任。木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれていた。

1869(明治2)年1月

  • 伊藤博文(27歳)、兵庫県知事時代、『国是綱目』いわゆる『兵庫論』を捧呈。「君主政体」、「兵馬の大権を朝廷に返上」、「世界万国との通交」、「国民に上下の別をなくし自在自由の権を付与」、「世界万国の学術の普及」、「国際協調・攘夷の戒め」を主張。

1870(明治3)年10月20日/12月12日

  • 鉄道技師長エドモンド・モレル、伊藤博文に工部省設置を提案。その中で明治政府は、お雇い外国人技術者に頼るのではなく、日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張した。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​

1870(明治3)年10月20日/12月12日

  • 伊藤博文(29歳)、鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、山尾庸三と共に工部省設立に尽力。初代工部卿として、殖産興業を推進。後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

1870(明治3)年11月 - 1871(明治4)年5月

  • 伊藤博文(29歳)、財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学ぶ。帰国後、日本最初の貨幣法である新貨条例を建議。制定。

1871(明治4)年8月14日/9月29日

  • 伊藤博文(29歳)、工部省に鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台、製作、工学、勧工、土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三を「工学寮」と測量司の長官に。

1871(明治4)年8月14日/9月29日

  • 工学寮」は当初、海外留学制度、国内技能研修制度(修技校)、技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者を育成する部局であったが、最終的に「工学寮工学校」のみの管轄となる。

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

  • 伊藤博文(30-32歳)、岩倉遣欧使節団の副使に、渡米。サンフランシスコで「日の丸演説」、「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

  • 大久保利通(40-41歳)、大蔵卿に就任。「岩倉遣欧使節団」の副使として外遊。日本の政治体制のあるべき姿として、先進国のイギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。外遊中に留守政府で問題になっていた、朝鮮出兵を巡る征韓論論争。西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立。

  • 伊藤博文、明治新政府に提出した『国是綱目』が当時極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたため、大久保利通や岩倉具視の不興を買う。大蔵省の権限を巡る論争でも、大久保利通と対立関係に。

  • 伊藤博文、「岩倉遣欧使節団」がアメリカで不平等条約改正交渉を開始。全権委任状を取るため、大久保利通と共に一旦帰国。しかし、取得に5か月もかかったことで木戸孝允との関係も悪化。改正交渉中止。木戸孝允との不仲は、のちに和解。

1872(明治5)年5月17日/6月12日-9月12日/10月14日

  • 伊藤博文(30-31歳)、大蔵兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

1873(明治6)年10月24日-10月25日

明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

 閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

 西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

1873(明治6)年10月24日-10月25日

  • 伊藤博文(31-32歳)、明治六年政変、「内治優先」路線を掲げた大久保利通・岩倉具視・木戸孝允らを支持。大久保利通の信任を得る。木戸孝允と疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保利通・岩倉具視と連携する道を選ぶ。

1875(明治8)年

  • 伊藤博文(33-34歳)、盟友・井上馨と共に木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎ、大阪会議を斡旋。

1878(明治11)年

  • 伊藤博文(33-34歳)、大久保利通が暗殺される、内務卿を継承、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう。

1879(明治12)年9月

  • 伊藤博文(34-35歳)、教育議を上奏、教育令発布に。

1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月

  • 福澤諭吉(45-46歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文、井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

1881(明治14)年

  • 大隈重信、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きており、大隈重信もその反対論者であり、「慶應義塾」出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・「慶應義塾」陰謀説が浮上。明治十四年の政変が起こることに。

1881(明治14)年

  • 福澤諭吉(45-46歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。

1881(明治14)年

明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓らと共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。

1882(明治15)年3月1日​

  • 福澤諭吉(47歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、「慶應義塾」出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」

1882(明治15)年3月14日

  • 伊藤博文(40歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴い、ヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。

1883(明治16)年

  • 津田梅子(18-19歳)、外務卿・伊藤博文の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会。華族子女を対象に教育を行う私塾「桃夭女塾」を開設した下田歌子を紹介される。

  • 津田梅子、父・津田仙との確執もあり、伊藤博文に雇われ、伊藤家に滞在。英語指導や通訳にあたる。

1884(明治17)年5月

  • 谷干城(47歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、「学習院」第3代院長として復帰。かねてから華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛になることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。また将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も考え、軍人だけでなく政治、外交にも役立つ多様な人材育成を目指す。

1885(明治18)年

  • 津田梅子(20-21歳)伊藤博文の推薦により、「華族女学校」英語教師に。翌1886(明治19)年、職制変更により嘱託に。華族の上流階級的気風には馴染めず。

1885(明治18)年2月-4月18日

  • 伊藤博文(43歳)、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため、清に派遣。李鴻章との間に天津条約を調印。

1885(明治18)年12月

  • 伊藤博文(44歳)、内閣制度移行、太政大臣として名目上ながら政府トップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。英語力が決め手となり、初代内閣総理大臣に就任。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。

1885(明治18)年12月22日 - 1888(明治21)年4月30日

  • 伊藤博文(44-46歳)、第1次伊藤博文内閣、憲法発布前の下準備の機関創設に奔走。1886(明治19)年2月、各省官制を制定。同3月、「帝国大学」創設。1887(明治20)年3月、「帝国大学法科大学」の研究団体「国家学会」創設、支援。

1887(明治20)年

  • 内閣総理大臣・伊藤博文を創立委員長に、「女子教育奨励会」設立。「日本の貴婦人に欧米諸国の貴婦人と同等なる佳良の教化及び家事の訓練を受けさせる」ことを目的に。創立委員に、渋沢栄一、岩崎弥之助、「帝国大学」教授・外山正一、「帝国大学」英語教授・ジェムス・ディクソン、聖公会司教・アレキサンダー・ショーなど、政財官界の有力者で構成。​​

1887(明治20)年6月

  • 伊藤博文(45歳)、夏島にて伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に、憲法草案の検討を開始。

1887(明治20)年

  • 西村茂樹(58-59歳)、『日本道徳論』刊行。日本の近代教育制度が整備されつつある中で、国民教育の根本精神が重要な問題として議論されるように。首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮。日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本に、西洋の精密な学理を結合させるべきと説く。国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示。文部大臣・森有礼はこれを読んで大いに賛成するも、伊藤博文首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責。

1888(明治21)年2月

  • 大隈重信(49歳)、外交手腕を評価する伊藤博文により、不平等条約改正のため、外務大臣に。

1888(明治21)年

  • 伊藤博文(46-47歳)、枢密院開設、初代枢密院議長に。

1888(明治21)年9月11日

  • 「女子教育奨励会」が計画する「東京女学館」が認可を受け、開校。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。

1889(明治22)年2月11日

  • 伊藤博文(47歳)、黒田清隆内閣にて、大日本帝国憲法発布。華族同方会で憲法に関して演説、立憲政治の重要性、とりわけ一般国民を政治に参加させることの大切さを主張。

1890(明治23)年

  • 伊藤博文(48-49歳)、初代貴族院議員議長に。

1892(明治25)年

  • 伊藤博文(50-51歳)、吏党の大成会を基盤にした政党結成を主張するも、明治天皇の反対により頓挫。

1892(明治25)年8月8日 - 1896(明治29)年9月18日

  • 伊藤博文(44-46歳)、第2次伊藤博文内閣、朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに清軍と衝突。朝鮮の主権を巡って意見が対立、1892(明治25)年8月、日清戦争勃発。李鴻章との間に下関条約(馬関条約)に調印。朝鮮の独立(第一条)と遼東半島の割譲などを明記した下関条約がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、遼東半島の放棄を決定、首相辞任。

1896(明治29)年

  • 板垣退助(58-59歳)、議会内で孤立していた自由党、第2次伊藤博文内閣と協力の道を歩み、内務大臣として入閣。続く第2次松方正義内閣においても留任するも、すぐに辞任。

1897(明治30)年3月24日

1898(明治31)年1月12日 - 1898(明治31)年6月30日

  • 伊藤博文(44-46歳)、第3次伊藤博文内閣、衆議院を解散、閣議で政党結成の意思表明、新党結成を唱えるも、山縣有朋の反対に遭い首相辞任。

1900(明治33)年9月

  • 伊藤博文(58歳)、日本最初の本格的政党内閣を組織した政党、立憲政友会創立。初代総裁に。

1900(明治33)年10月19日 - 1901(明治34)年6月2日

  • 伊藤博文(59歳)、第4次伊藤内閣、立憲政友会メンバーを大勢入れ発足するも、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こす。首相辞任。

1901(明治34)年4月20日

1904(明治37)年

  • 伊藤博文(62-63歳)、日清戦争後、対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張。桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対。自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するも、ロシア側から拒否。日露戦争を巡り、金子堅太郎をアメリカに派遣、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼。これが翌1905(明治38)年のポーツマス条約に結びつくことに。

1905(明治38)年11月 - 1909(明治42)年6月

  • 伊藤博文(64-68歳)、第二次日韓協約により韓国統監府設置、初代統監に。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握。国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立。韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、当初は併合反対の立場を取る。韓国民の素養を認め、韓国の国力・自治力が高まることを期待、文盲率が94%にも上った韓国での教育にも力を注ぐ。しかし、朝鮮内で独立運動である義兵闘争が盛んになるにつれ考え方を変え、韓国併合の大綱を是認。韓国総監を辞任。

1909(明治42)年10月26日

  • 伊藤博文(68歳)、ハルビン駅で安重根に暗殺される。享年、68歳。