ダイガクコトハジメ - 大学校(大学)・文部省

大学校(大学)・文部省

大学校(大学)創立 : 1869(明治2)年7月8日/8月15日

文部省創立 : 1871(明治4)年7月18日/9月2日​

​前史  :

​国学・漢学の昌平学校、洋学の開成所/開成学校、西洋医学の医学所/医学校の3校を統合 → 大学校(大学) → 東京大学の前身、文部省の前身

弘文館 → 昌平坂学問所(昌平黌) → 昌平学校 → 大学校(大学)/大学本校 →  東京大学の源流の1つとして位置付けられる、廃校後一部が師範学校

天文方蛮(蕃)書和解御用 → 洋学所 → 蕃書調所 → 洋書調所 → 開成所 → 開成学校 → 大学校(大学)/大学南校 → 南校 → 第一大学区第一番中学校 → 開成学校 → 東京開成学校 → 東京開成学校本科が東京大学法学部・理学部・文学部

お玉ヶ池種痘所 → 西洋医学所 → 医学所 → 大病院 → 医学校兼病院 → 大学校(大学)/大学東校 → 東校 → 第一大学区医学校 → 東京医学校 → 東京大学医学部

​「大学校(大学)・文部省」年表(「帝国大学」設立まで)

「大学校(大学)」年表​

1868(慶応4)年6月13日/8月1日

  • 開成所」、幕府解体により一時閉鎖されたが、明治新政府の布告により「医学所」と共に新政府に接収される。

1868(慶応4)年6月29日/8月17日

  • 「昌平坂学問所(昌平黌)」、明治新政府に接収され、官立の「昌平学校」として再出発。​しかし、従来のような儒学・漢学中心ではなく、皇学(国学・神道)を上位に、儒学を従とする機関として位置付けられる。

1868(慶応4)年7月17日/9月3日

東京奠都、江戸が「東京」と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

1868(明治元)年9月12日/10月27日

  • 明治政府に接収された「開成所」、官立「開成学校」として再興。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

1868(慶応4)年9月13日/10月28日

  • 学習院」を巡る平田鐵胤・玉松操・矢野玄道らと保守勢力の対立を憂慮した松代藩士・長谷川昭道は、岩倉具視に両者間の妥協を促す意見書を提出。岩倉具視は同意。平田案に基づく国学中心の「皇学所」と、大学寮代を改組した漢学中心の「漢学所」の2校体制に移行。​

1868(慶応4)年9月16日/10月31日

  • 京都に大学校を新設する太政官布告が出される。これにより、「漢学所」は9月18日/11月2日に開講。やや遅れ、12月14日/1月26日に「皇学所」開講。

1869(明治2)年1月

  • 相良知安(32歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。

1869(明治2)年2月

  • 「医学所」、「大病院」・「医学校兼病院」と改称。5局(医学校・病院・種痘館・黴毒院・薬園)を置く。

1869(明治2)年6月

1869(明治2)年7月8日/8月15日

  • 東京奠都、東京に移った新政府により、「大学校」構想は江戸幕府の「昌平坂学問所(昌平黌)」などを基礎とし、洋学・医学を織り交ぜる案へと修正される。これにより、両学所の実質は東京へ移されることに。皇漢両学を教授する「大学校」の「本校」に、「皇学所」出身者が採用される。「昌平坂学問所(昌平黌)」系儒学者と、「皇学所」系国学者が激しく対立。

1869(明治2)年7月8日/8月15日

  • 明治新政府が官立の教育機関および教育行政官庁を構想、「大学校」設立。教育機関としては、国学・漢学の昌平学校」、洋学の「開成所/開成学校」、西洋医学の「医学所/医学校」の3校を統合。「昌平学校」を中枢機関とする案を構想した。また同時に、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた。長官・学長に相当する大学別当に、松平春獄が就任。

  • 昌平学校」が「大学校」の中枢機関となる構想以降、儒学派・国学派の対立が一層激化。

  • 古賀謹一郎、「大学校」の教授として明治新政府から招聘されるが、幕臣としての節を守り拒否。徳川家の駿府転封に伴い、静岡へ移住。

1869(明治2)年8月2日/9月7日

  • 「大学校」で挙行された学神祭において、国学派が孔子に代えて「八意思兼命」を祀ったことを発端に「学神祭論争」が起こる。

1869(明治2)年9月2日/10月6日

1869(明治2)年12月10日/1月11日

  • 皇学所」・「漢学所」、廃止命令に強く反発。この声に圧された京都留守官は、東京に置かれた「大学校」を補完する学校として、独断で旧「皇学所」と旧「漢学所」を統合した「大学校代」を設置。しかし、東京奠都で多くの公家が京都を去ったことも影響、生徒を十分に集めることができず。皇漢両派の対立も止まず。

1869(明治2)年12月17日/1月18日

1869(明治2)年

  • 楠田英世、「大学」少丞、後に「大学」大丞に。

1869(明治2)年

1870(明治3)年5月

  • 明治新政府、「大学東校」の上野移転を決定。

1870(明治3)年7月

  • 普仏戦争の影響により、ドイツ人教師ミュルレルとホフマンの来任が遅れる。「大阪医学校」教師の任期を終えたオランダ医ボードウィンに講義を委嘱。「大学東校」の上野移転計画はボードウィンの反対により中止。

1870(明治3)年7月25日/8月21日

  • 大学校代」、明治新政府より、不振を理由に廃止、京都府に移管する命令が下る。「府校(現在の(京都府中学校)」に。

1870(明治3)年8月

1870(明治3)年11月

  • 大学東校」、「ドイツ医学修得のため、池田謙斎、大沢謙二、長井長義ら9名が国費留学。

1870(明治3)年7月12日/8月8日 - 1871(明治4)年

  • 「大学校(大学)」内部における洋学派と国学・漢学派の対立が激化。政府は「昌平学校/大学本校」を中枢機関とする案を早々に断念。当分休校となり、そのまま廃校となった。これにより、「昌平坂学問所(昌平黌)」は林羅山の私塾以来240年、学問所となって以来75年の歴史に幕を閉じた。

1870(明治3)年

  • 小幡甚三郎(23-24歳)文部省入省。『西洋学校軌範』を記す。1872(明治5)年の学制整備にあたり、この学校制度案が採用されることに。

1870(明治3)年

1871(明治4)年7月18日/9月2日

  • 明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。

  • 「大学」休止・廃校により、「大学南校」と「大学東校」が独立。この一連の過程で、政府において洋学中心による「東京大学」創立の方針が固まる。次第に、洋学者が国学者・漢学者を圧倒するようになる。

  • 江藤新平(37歳)、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である「学制」の基礎を固める。

  • 富国強兵・日本の近代化を目的に、優秀な人物として推薦を受けた貢進生を全国から集める。御雇い外国人から英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。貢進生の中から更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させた。

「文部省」年表(「帝国大学」設立まで)

1871(明治4)年7月21日/9月5日

  • 「大学南校」、文部省管轄に。「南校」と改称。​

1871(明治4)年7月21日/9月5日

  • 「大学東校」、文部省管轄に。「東校」と改称。​

1871(明治4)年8月

  • 東校」、ドイツ人教師ミュルレルとホフマンが来任。外科学、内科学を講義。ミュルレルに日本の医学教育制度構築の全権を託す。

1871(明治4)年9月25日/11月7日

  • 南校」、文部省により一時閉鎖。貢進生制度廃止など改革。翌10月に再開。結果、外国人教師による普通科教育に重点をおく機関となったが、そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1871(明治4)年10月

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日

  • 田中不二麿(26-28歳)岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

1871(明治4)年

1872(昭和5)年3月-末

  • 文部省、新時代の女子教育の中心機関として「官立女学校」開校。同年末、「東京女学校」と改称。中等教育相当の非常に程度の高い教育が成される。

1872(明治5)年4月

1872(明治5)年

1872(明治5)年4月

1872(昭和5)年5月

  • 文部省、学制公布に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視。正院に「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出。認可を受け、「師範学校」が東京府下に設立されることが決定。生徒募集が広く布達される。​

1872(明治5)年8月2日/9月4日公布

学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

1872(明治5)年8月2日/9月4日

  • 「南校」、「学制」公布により、学制における「中学校」へと改変。「第一大学区第一番中学校」と改称。外国語による「普通科」の課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。​​

1872(明治5)年8月

1872(明治5)年9月

  • 学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に、日本初の官立教員養成機関「師範学校」創立。湯島聖堂内に、「昌平坂学問所(昌平黌)」を一部引き継ぐ形で設立される。

1872(明治5)年9月

1872(明治5)年10月8日

1872(明治5)年

1873(明治6)年4月10日

  • 「第一大学区第一番中学校」、学制における「専門学校」へと改変。再び、「(第一大学区)開成学校」へ改称。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。

1873(明治6)年5月

  • 外務省​、「独魯清語学所」を文部省に移管、「外国語学所」と改称。

1873(明治6)年5月

1873(明治6)年6月

1873(明治6)年6月

  • 諸葛信澄(23歳)、「師範学校」初代学長に。お雇い外国人教師マリオン・スコットの指導の下、米国式の一斉教授法を実施。その内容をまとめ、『小学教師必携』刊行。

  • 師範学校」は日本最初の小学教員養成機関として、将来全国に設立されるべき教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たす。校内編輯局にて、全国小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国小学校の教則の範例となるべき『小学教則』の編成などが行われる。

1873(明治6)年8月

  • 開成学校」、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。

1873(明治6)年8月

1873(明治6)年8月

  • 6大学区(名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台)で官立師範学校設立。東京の「師範学校」は、「東京師範学校」と改称。師範学校の名が、教員養成機関の総称に。師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障された。優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。師範学校→「高等師範学校」→「文理科大学」というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→「帝国大学」というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。

1873(明治6)年9月4日

  • 福澤諭吉(38歳)、岩倉遣欧使節団に随行した長与専斎の紹介で、文部卿・木戸孝允と会談。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」。

1873(明治6)年11月

1873(明治6)年11月4日

  • 東京外国語学校」、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置。後に英語科が分離、朝鮮語科が増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。​

1873(明治6)年11月

1873(明治6)年11月 - 1874(明治7)年3月13日

  • 文部省学監のお雇い外国人・ダビッド・モルレー、日本も欧米諸国に倣い、女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することを建言。文部少輔・田中不二麿も同調。翌1874(明治7年)年1月、三条実美太政大臣へ「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出。これが承認される。同年3月13日、木戸孝允文部卿により、お茶ノ水橋袂に「女子師範学校」を設置する旨、布達発令。

1873(明治6)年

  • 九鬼隆一(20-21歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省のこの方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。留学生の中には井上毅、井上和郎などもおり、強い反発を受けたが、中江篤介の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができた。

1873(明治6)年

1874(明治7)年2月

1874(明治7)年5月

  • 「開成学校」、「東京開成学校」に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の「本科」に再編される。加えて、修業年限3年の「予科」が設けられる。

1873(明治6)年末

  • 東京開成学校」が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、「東京外国語学校英語科」を「東京英語学校」として独立。

1874(明治7)年5月

1874(明治7)年10月3日

1874(明治7)年

1874(明治7)年

1874(明治7)年

1874(明治7)年

1874(明治7)年

  • 東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、「東京開成学校」内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする「製作学教場」設立。後の「東京職工学校」の前身となる。​​​

1875(明治8)年

  • 岡倉天心(11-12歳)、「東京開成学校」入学。政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことより、講師アーネスト・フェノロサの助手に。フェノロサの美術品収集を手伝う。

1875(明治8)年

  • 東京開成学校」、本科生・予科生から11名選抜、「文部省」派遣による第一回海外留学生となる。

1875(明治8)年

  • 目賀田種太郎(21-22歳)文部省の留学生監督となり、「東京開成学校」の生徒9人(鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴二郎、南部球吾)を引き連れて再渡米。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身も法律を学ぶ。

1875(明治8)年

1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月

  • 伊沢修二(23-26歳)文部省の「師範学校」教育調査のため、神津専三郎、高嶺秀夫と共にアメリカ留学。「マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校」で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。ハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。

1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月

  • 高嶺秀夫(20-23歳)文部省の「師範学校」教育調査のため、伊沢修二、神津専三郎と共にアメリカ留学。「ニューヨーク州オスウィーゴー州立師範学校」で学ぶ。教師養成のための進歩的で革新的な学校としての名声は絶頂期にあり、オスウィーゴー校への留学は幸運であった。エドワード・シェルドン校長を通して、有名な教育者H.クリュージイ.Jr家に寄宿。ペスタロッチの教育思想に基づく、生徒の自発性を重視する開発教育・教授法を、シェルドン校長を中心に「オスウィーゴー運動」として全米に広める。

1875(明治8)年8月

  • 東京師範学校」、中等教員養成のため、「中学師範学科」設置。

1875(明治8)年9月

1875(明治8)年11月18日

1875(明治8)年11月29日

  • 日本最初の官立女子師範学校「東京女子師範学校」創立。女子教育機関の最高峰とみなされ、1872(明治5)年創立の女子中等教育機関「東京女学校」からも相当数の転入がみられた。

1875(明治8)年11月

1875(明治8)年末

1876(明治9)年4月

  • 手島精一(26歳)、文部大輔・田中不二麿に随行、独立100年記念の米国フィラデルフィア万国博覧会に出席。ロシア陳列館における出品物と出会う。日本の工業教育方法を模索していた中、大きな衝撃を受け、その後の実習重視の工業教育論を方向づけることに。

1876(明治9)年6月

  • 正木退蔵(29歳)、「東京開成学校」のイギリス留学生監督として、穂積陳重、岡村輝彦、向坂兌、桜井錠二、杉浦重剛、関谷清景、増田礼作、谷口直貞、山口半六、沖野忠雄の10名を引率、アメリカ経由で再びロンドンに渡る。文部省に留学生の就学状況を報告。

1876(明治9)年11月

  • 東京医学校」、本郷に校舎病院の建築が完成、 移転。

1876(明治9)年

1876(明治9)年11月16日 - 1878(明治11)年6月

  • 東京女子師範学校」、附属幼稚園設立。1878(明治11)年6月、幼稚園・保姆練習科がそれぞれ設置され、幼児保育・教育およびそれらを担う保母の育成が開始。

1877(明治10)年2月

1877(明治10)年2月1日

  • 東京女子師範学校」、附属小学校設立。生徒の実地研修の場としての附属学校園の制度を順次整備。

1877(明治10)年2月19日

1877(明治10)年4月12日

  • 東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。

1877(明治10)年4月12日

1877(明治10)年

1877(明治10)年

1877(明治10)年

1877(明治10)年4月13日

1877(明治10)年4月13日

1877(明治10)年

  • 東京大学理学部」に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、「製作学教場」よりも高等の学術を教授するように。存続は不必要とみられ、「製作学教場」を閉鎖。しかし、文部省は再び低度工業教育の必要を認め、「製作学教場」の後身とも見なされる「東京職工学校」設立へ動く。

1877(明治10)年

1877(明治10)年4月12日

  • 外山正一(27-28歳)、新たに発足した「東京大学」にて、日本人初の教授に。講義では徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始、これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄される。

  • 外山正一、「ミシガン大学」で進化論の公開講義を受けた縁より、エドワード・S・モースを「東京大学」に招聘。

1878(明治11)年2月

  • 手島精一(28歳)、パリ万国博覧会を視察、工業教育の重要性を認識。行動を共にしていた九鬼隆一も、パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性をますます痛感。​

1878(明治11)年

  • 伊沢修二(26-27歳)文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書を文部大臣に提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。

1878(明治11)年10月25日

  • 学制・教育令の中で、小学校・専門学校の教育科目に「体術」・「体操」が規定されたが、具体的な教授法が確立されていなかった。「東京師範学校」も知的教科を中心とする知育に偏重、体育教員の養成が後手にまわっていた。そこで、アメリカ・アマースト大学卒業の医学士リーランドが体育担当教師として招聘され、文部省により日本最初の体育研究・教育機関「体操伝習所」創立。

1878年(明治11)年10月25日

1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月

  • 九鬼隆一(26-27歳)、パリ万国博覧会に派遣。手島精一と行動を共に。パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性を痛感。​

1878(明治9)年11月

  • 官立の師範学校は、「東京師範学校」と「東京女子師範学校」を除き、西南戦争時の財政難により廃校に追い込まれ、文部省より府県にすべて移管される。各県が小学校教員養成を目的として独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。

1878(明治11)年12月

  • 文部省、「東京大学」に学位(学士号)の授与権を与える。

1879(明治12)年3月5日

1879年(明治12)年3月

1879(明治12)年4月

  • 東京大学」、授与する学士号を法学士・理学士・文学士・医学士・製薬士とする。

1879(明治12)年

  • 田中不二麿(33-34歳)、教育令を建白。学制にある画一的あるいは民生圧迫的な側面を退け、アメリカ式の地方主体による自由主義教育を基調としたものに。6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど、親や町村の教育負担を著しく軽減した。

1879(明治12)年9月29日公布

教育令、学制に代わり公布。欧米の教育制度を模範に定められた学制は、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学校運営に要する地方の経済的な負担も大きく、これら事情に考慮する改正が成される。

1879(明治12)年

  • 田中不二麿(33-34歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。

1880(明治13)年3月

  • 伊沢修二(28歳)文部省音楽取調掛にて、日本内外音楽の調査をはじめ多くの事業を開始。また、「東京師範学校」及び「東京女子師範学校」の附属小学校、幼稚園生徒にて授業を行う。また、伝習人を募集、音楽の授業と教員の養成を始める。

1880(明治13)年3月

  • 外務省「韓語学所」、文部省に移管。「東京外国語学校」に朝鮮語学科設置。

1880(明治13)年

  • 東京大学」、大学院に相当する、「学士研究科」を初めて設置。

1880(明治13)年

1880(明治13)年6月4日

1880(明治13)年11月

  • 九鬼隆一(28歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌の行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。​

1880(明治13)年

  • 田中不二麿(34-35歳)、未就学児増加ならびに学力低下を招いたとして政府内で批判が強まり、司法卿に配置換えに。以後、教育行政から遠ざかる。​

1881(明治14)年

明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。

1881(明治14)年

  • 九鬼隆一(28-29歳)、明治十四年の政変に組せず、文部省に残り、師である福澤諭吉の文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策の実施者となる。このため、福澤諭吉との関係が極度に緊張。(後に、和解)

1881(明治14)年

  • 教育令の下、師範学校教則大綱が定めらる。師範学校のレベルが初めて統一される。

1881(明治14)年1月11日-3月1日

1881(明治14)年5月26日

  • 手島精一(30-31歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続け、また文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵

1881(明治14)年

  • 東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。

1881(明治14)年7月6日

1881(明治14)年7月14日

  • 東京大学」、学内運営の常設審議機関として「諮詢会」設立。総理の諮問機関としての「総会」および各学部長の諮問機関である「部会」からなり、教授・助教授・講師・予備門教諭を会員とし学科課程・学位・試験規則・学制関係規則など広範な事項を審議。全学評議会・各学部教授会の先駆。

1881(明治14)年9月27日

  • 正木退蔵(34歳)九鬼隆一により日本に呼び戻される。「東京職工学校」創立手続きに奔走。「東京職工学校」創立。初代校長に。学則改正、煉瓦校舎建設、学生募集に当たった後、「化学工芸科実験工場」を設立。

1882(明治15)年2月

1882(明治15)年6月

1881(明治14)年 7月6日

1882(明治15)年7月

  • 東京女子師範学校」、「東京女学校」を継承する形で、附属高等女学校設立。全国初の高等女学校として、全国各道府県に設置された女子中等教育機関のモデルケースに。

1882(明治15)年12月

  • 九鬼隆一(30歳)、文部卿となった大木喬任からの信頼は弱く、翌1883(明治16)年に強力な支持者であった岩倉具視が亡くなると、文部省での権勢は弱まる。

1882(明治15)年 - 1883(明治16)年

  • 師範教育研究のためのアメリカ留学から帰国した伊沢修二高嶺秀夫らを中心に、小学師範学科教職員講習を通じ、ペスタロッチ主義による小学校教育法の普及が行われる。生徒の自発性を重視する開発教育は、師範学校を中心に全国に広まりブームとなる。

  • 官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。

1884(明治17)年5月

  • 九鬼隆一、特命全権公使としてワシントンD.C.赴任。公使館の客間に数百幅の日本画を飾り、日本美術を紹介。また古美術品の海外流出防止の観点より、国宝保存を文部省や宮内省に進言。背景に、以前から交流のあったアーネスト・フェノロサの意見があったとされる。

1884(明治17)年

1884(明治17)年12月

  • 「司法省法学校」、司法省より文部省に移管、「東京法学校」に。

1885(明治18)年

1885(明治18)年

  • 東京大学法学部」、成立に至るまでの期間、フランス法学習者で成績優秀者は「司法省法学校」へ転学したり、フランス留学するなど流出。一部の学科を除き教授言語を英語に統一したため、イギリス法学系の色が強くなる。このことが、「民法典論争」を引き起こすことに。

1885(明治18)年5月14日

1885(明治18)年5月14日

1885(明治18)年6月

  • 財政難により、全国各道府県における女子師範学校の師範学校への統合という流れの中で、「東京女子師範学校」を「東京師範学校」に統合。「東京師範学校女子部」に改組。「東京師範学校」は、全国唯一の官立師範学校となる。

1885(明治18)年8月

  • 東京大学予備門」、「東京大学」付属より分離、文部省の管轄に。制度を改め、「東京大学」の予備教育機関であるばかりでなく、他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関と拡張される。

1885(明治18)年9月

  • 東京外国語学校」、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は「東京大学予備門」に合併、英・仏・独以外の語学科が「東京商業学校」に合併される。「東京商業学校」合併に対し、「東京外国語学校」学生は激しく反発、中退者も出現。「東京外国語学校」は廃止に。

1885(明治18)年12月22日 - 1888(明治21)年4月30日

  • 伊藤博文(44-46歳)、第1次伊藤内閣、憲法発布前の下準備の機関創設に奔走。1886(明治19)年2月、各省官制を制定。同3月、「帝国大学」創設。1887(明治20)年3月、「帝国大学法科大学」の研究団体「国家学会」創設、支援。

1885(明治18)年12月22日

  • 森有礼(38歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。「学政要領」立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」、「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 森有礼(38歳)、「師範学校」を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。翌1886(明治19)年、それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。​

1885(明治18)年

1885年(​明治18)年12月22日

  • 太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。「工部大学校」は、文部省に移管される。​

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布

学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日

  • 学校令により、高等中学校の制度が成立。「東京大学予備門」は、「第一高等中学校」に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置するこが定められる。第三高等中学校(京都)、山口高等中学校、第二高等中学校(仙台)、第四高等中学校(金沢)、第五高等中学校(熊本)、鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。「東京大学予備門」から設立された「第一高等中学校」だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が「帝国大学」へ進学する制度に。

1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行

帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。

1886(明治19)年3月

 

1886(明治19)年3月

1886(明治19)年3月

  • 「東京大学文学部」、「帝国大学文科大学」に。第一科哲学科、第二科和文学科、第三科漢文学科、第四科博言学科を設置。初代学長に、外山正一

1886(明治19)年

1886(明治19)年

  • 「東京大学理学部」、「帝国大学理科大学」に。数学科、星学科、物理学科、化学科、動物学科、植物学科、地質学科を設置。初代学長に、菊池大麓

1886(明治19)年

1886(明治19)年3月

1886(明治19)年3月

1886(明治19)年3月31日

1886(明治19)年5月

1886年(​明治19)年

1886(明治19)年5月1日

1886(明治19)年

私立法律学校特別監督条規、東京府下に所在、特に教育水準が高く特別許認可を受けた「英吉利法律学校」・「専修学校」・「東京専門学校」・「東京法学校」・「明治法律学校」の5校について、「帝国大学」総長の監督下に。帝国大学特別監督学校となる(「五大法律学校」)。

1886(明治19)年

  • 師範学校令、師範学校は「高等師範学校」と「尋常師範学校」に分けられる。

1886(明治19)年3月6日

  • 山川浩(37-38歳)、文部大臣森有礼の命により、現役の陸軍軍人として「高等師範学校」初代校長に。授業料値上げの増収により、良い教師を招聘、大いに校風を振起。軍人であり規律に厳しく、秩序が整然としたものに。

1886(明治19)年3月31日

1886(明治19)年3月

1886(明治19)年4月

1886(明治19)年4月29日

1886(明治19)年4月29日

1886(明治19)年

1886(明治19)年

  • 訓盲唖院」、楽善会より文部省に移管され、官立の盲教育・聾唖教育機関に。

1886(明治19)年 - 1887(明治20)年

  • 岡倉天心(22-24歳)文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的とする欧米調査旅行に。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。​

​1887(明治20)年9

  • ​高等中学校令施行に伴い、「県立千葉医学校」は官立に移管、「第一高等中学校医学部」に。「第一高等中学校」への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、「県立千葉医学校」長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定した。

1887(明治20)年10月

1887(明治20)年10月

​1887(明治20)年12

1888(明治21)年11月28日

1888(明治21)年

1888(明治21)年

1888(明治21)年

1888(明治21)年

1889(明治22)年2月

  • 濱尾新(39歳)、「東京美術学校」開校。文部省図画取調掛委員長として、校長事務取扱に。翌年1890(明治23)年、校長に岡倉天心、副校長にフェノロサが就任。教官に、黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之、後に川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを加える。ほとんどが日本画家などの伝統的美術家であり、日本伝統美術の振興を目指す理念が具体化された形になる。

1889(明治22)年7月

  • 高等師範学校」、「教育博物館(国立科学博物館の前身)」を附属施設に。

1889(明治22)年

  • 帝国大学令、「帝国大学」について、大学院と法科・医科・工科・文科・理科に農科を加えた6科となる。

1890(明治23)年

1890(明治23)年

1890(明治23)年

  • 東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。「帝国大学農科」再編にあたり、「帝国大学」側は一時この合併に猛反発、「帝国大学」評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。大学評議会への諮問がなかったこと、「東京農林学校」の学科水準が「帝国大学」の分科大学の程度にないという判断がなされたこと、「東京農林学校予科」の教育水準などが理由に。初代学長に、松井直吉

1890(明治23)年