ダイガクコトハジメ - 津田塾大学
津田塾大学
創立 : 1900(明治32)年7月
大学設立: 1948(昭和23)年3月25日
創立者 : 津田梅子
前史 :
女子英学塾 → 津田英学塾 → 津田塾専門学校 → 津田塾大学
「津田塾大学」年表
1899(明治32)年2月7日公布 4月1日施行
高等女学校令、従来、中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1900(明治32)年
1900(明治32)年7月
-
津田梅子(35歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、「女子英学塾」創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1903(明治36)年7月
-
津田梅子(38歳)、専門学校令に基づき、「女子英学塾」を社団法人に。
1905(明治28)年
-
女子学校で始めて、英語科教員無試験検定取り扱い許可を受ける。
1912(大正元)年
-
星野あい(27-28歳)、「女子英学塾」に勤める。
1919(大正8)年1月
-
津田梅子(54歳)、「女子英学塾」の経営基礎が整うと、塾長辞職。創業期より健康を損ない、鎌倉の別荘で長期闘病。
1925(大正14)年7月29日
-
渋沢栄一(85歳)、「女子英学塾」復興資金を寄付。
1929(昭和4)年
-
星野あい(44-45歳)、8月に津田梅子が死去。後を託され、「女子英学塾」第2代塾長に。
1933(昭和8)年
-
「津田英学塾」に改称。
1943(昭和18)年
-
星野あい(58-59歳)、理系学部を増設、「津田塾専門学校」設立に尽力。
1943(昭和18)年
-
「津田塾専門学校」に改称。
1948(昭和23)年3月25日
-
大学昇格、新制「津田塾大学」に。初代学長に、星野あい。
1952(昭和27)年
-
星野あい(67-68歳)、「津田塾大学」学長退任。名誉学長に。