お茶の水女子大学
中村正直
なかむらまさなお
1832(天保3)年5月26日/6月24日 - 1891(明治24)年6月7日
1832(天保3)年5月26日/6月24日
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中村正直、江戸麻布に幕府同心・中村武兵衛の長男として生まれる。幼名、釧太郎。
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中村正直、葛馬茂右衛門より、四書を学ぶ。
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中村正直、石川梧堂の門人に。筆法を修める。
1846(弘化3)年
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中村正直(13-14歳)、築地の井部香山の塾にて、漢学を学ぶ。
1847(弘化4)年
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中村正直(14-15歳)、桂川甫周より、蘭学を学ぶ。
1848(嘉永元)年
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中村正直(15-16歳)、「昌平坂学問所」寄宿舎に。佐藤一斎に儒学を、箕作奎吾に英語を学ぶ。
1856(安政3)年
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中村正直(23-24歳)、「甲府徽典館」学頭に。
1862(文久2)年
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中村正直(29-30歳)、幕府御用儒者に。
1866(慶応2)年10月26日 - 1868(明治元)年6月
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中村正直(33-36歳)、幕府のイギリス留学生監督として、川路寛堂と供に外山正一ほか留学生12名を引き連れ、渡英。幕府瓦解、帰国。
1866(慶応2)年 - 1869(明治2)年
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外山正一(17-21歳)、勝海舟の推挙により、中村正直らと共に幕府派遣留学生として渡英。イギリスの最新の文化制度を学ぶ。
1868(明治元)年8月
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中村正直(36歳)、 静岡市大岩町の臨済寺に家を借りる。その後、半洋式の家「無所争斎」建築、移住。
1868(明治元)年9月
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中村正直(36歳)、駿府藩校「静岡学問所」教授に。同じく教授であったエドワード・ウォーレン・クラーク宣教師に感化され、生涯の友に。
1871(明治4)年
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中村正直(38-39歳)、「天は自ら助くる者を助く」、明治維新後の文明開化の風潮の中、封建思想打破と共に近代的人間の確立を目的に『西国立志編』刊行。イギリスの著述家S.スマイルズ『自助論 Self-Help (1859)』翻訳書。その反響は大きく、福澤諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ二大啓蒙書に。総発行部数100万部以上とされ、明治期を通して広く読まれる。
1872(明治5)年6月
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中村正直(39-40歳)、 大蔵省翻訳局長に。
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中村正直、 帝国学士会員に。
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中村正直、 「東京大学文学部」教授に。
1873(明治6)年3月
1873(明治6)年7月
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中村正直(41歳)、アメリカ帰国の森有礼により、欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと呼びかけされる。福澤諭吉・加藤弘之・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。会員には旧幕府官僚で、「開成所」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。機関誌「明六雑誌」の執筆を行う。
1874(明治7)年1月4日
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中村正直(41歳)、横浜ユニオン・チャーチにて、ジョージ・コクラン宣教師の説教を聞く。それがきっかけで、コクランを「同人社」に迎え入れる。
1874(明治7)年12月25日
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中村正直(42歳)、コクランより洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒に。
1875(明治8)年5月
1875(明治8)年11月18日
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中村正直(43歳)、 「東京女子師範学校」摂理に。
1879(明治12)年
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文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関「東京学士会院」が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、西周、福澤諭吉、箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
1890(明治23)年3月
1890(明治23)年9月29日
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中村正直(58歳)、貴族院勅選議員に選勅。
1891(明治24)年6月7日
