東京大学
松井直吉
まついなおきち
1857(安政4)年6月25日/8月14日 - 1911(明治44)年2月1日
1857(安政4)年6月25日/8月14日
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松井直吉、美濃国大垣藩(現在の岐阜県大垣市)に生まれる。
1864(元治元)年
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松井直吉(6-7歳)、
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大垣藩藩校「敬教堂」入学。
1871(明治4)年
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松井直吉(13-14歳)、大垣藩の藩命により、貢進生として「大学南校」入学。
1872(明治5)年
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松井直吉(14-15歳)、松井家の養子に。
1875(明治8)年
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松井直吉(17-18歳)、アメリカ留学。「コロンビア大学鉱山学科」入学。
1875(明治8)年
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目賀田種太郎(21-22歳)、文部省の留学生監督となり、「東京開成学校」の生徒9人(鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴二郎、南部球吾)を引き連れて再渡米。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身も法律を学ぶ。
1880(明治13)年
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松井直吉(22-23歳)、帰国。「東京大学理学部」講師に。翌1881(明治14)年、教授に。
1886(明治19)年
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松井直吉(28-29歳)、「帝国大学工科大学」教授に。
1887(明治20)年
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松井直吉(29-30歳)、「第三高等学校」に赴任。
1890(明治23)年
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松井直吉(32-33歳)、理学博士に。
1890(明治23)年
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「東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。「帝国大学農科」再編にあたり、「帝国大学」側は一時この合併に猛反発、「帝国大学」評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。大学評議会への諮問がなかったこと、「東京農林学校」の学科水準が「帝国大学」の分科大学の程度にないという判断がなされたこと、「東京農林学校予科」の教育水準などが理由に。初代学長に、松井直吉。
1890(明治23)年
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松井直吉(32-33歳)、「帝国大学農科大学」設立、初代学長に。
1905(明治38)年12月2日
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松井直吉(48歳)、「東京帝国大学」総長を兼任。就任13日で、辞任。「帝国大学農科大学」学長は辞職せず。
1907(明治40)年
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松井直吉(49-50歳)、文展審査員に。
1911(明治44)年2月1日
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松井直吉(53歳)、死去。享年、53歳。
