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ダイガクコトハジメ - 東京農工大学

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参考情報

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学校略歴

  • 1873(明治6)年11月10日、大久保利通強い行政権限を持つ官僚機構として内務省設立、初代内務卿として実権を握る、「富国強兵」をスローガンに「殖産興業」政策を推進

  • 1874(明治7)年4月、内藤新宿試験場が内務省の管轄に、農業・牧畜についての西洋式技術導入を目的とする教育施設として農事修学場設置

  • 1874(明治7)年、内藤新宿試験場に蚕業試験掛設置

  • 1877(明治10)年、内務省に樹木試験場設置

  • 1878(明治11)年1月24日、農事修学場、駒場野に校舎を新築・移転、駒場農学校に改称、アメリカ農業を教育の柱にした札幌農学校に対し、専らドイツ農法に範を求める、当初の敷地面積約6万坪

  • 1881(明治14)年、駒場農学校樹木試験場、管轄が内務省より農商務省に移管

  • 1881(明治14)年、蚕業試験掛、管轄が内務省より農商務省に移管

  • 1882(明治15)年、樹木試験場東京山林学校に改称

  • 1882(明治15)年、蚕業試験掛、蚕業試験場に改称

  • 1884(明治17)年、駒場農学校、敷地面積が約16万5千坪に

  • 1886(明治19)年、財政難を理由に、駒場農学校東京山林学校が合併、東京農林学校

  • 1890(明治33)年、農商務省主管の東京農林学校帝国大学に統合、帝国大学農科大学に再編、農業教員養成所付設

​→ 帝国大学農科大学

  • 1891(明治24)年、蚕業試験場、農商務省仮試験場蚕事部に改称

  • 1893(明治26)年、農商務省仮試験場蚕事部、蚕業試験場に戻る

  • 1896(明治29)年、蚕業試験場、蚕業講習所に改称。

  • 1898(明治31)年、東京帝国大学農科大学乙科東京帝国大学農科大学実科に、札幌農学校実科と共に、旧制専門学校レベルの教育機関としての役割を果たす

  • 1899(明治32)年、蚕業講習所、東京蚕業講習所に改称

  • 1914(大正3)年、東京蚕業講習所、東京高等蚕糸学校に改称

  • 1935(昭和10)年4月、東京帝国大学農学部実科東京帝国大学より独立、東京高等農林学校創立

  • 1944(明治19)年、東京高等農林学校、東京農林専門学校​に改称

  • 1944(明治19)年、東京高等蚕糸学校、東京繊維専門学校​に改称

  • 1949(昭和24)年5月31日、東京農林専門学校と東京繊維専門学校を内包、学制改革により新制・東京農工大学発足、農学部・繊維学部設置

  • 1962(昭和37)年、繊維学部を工学部に改称

学校年表

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(44歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

  • 1874(明治7)年4月、内務省の管轄となった内藤新宿試験場に、農業・牧畜についての西洋式技術導入を目的とする教育施設として農事修学場(後に駒場農学校)設置。農学・獣医学・農芸化学・農学予科・農学試業科などの教師を外国より招聘する計画が議決される。

  • 1874(明治7)年、内務省の管轄となった内藤新宿試験場に、蚕業試験掛設置。

  • 1876(明治9)年 大久保利通(47歳)、ヨーロッパ全権公使に依頼、農事修学場の外国人教師の人選に取り組む。農学教師ジョン・デイ・カンスタンス、農芸化学教師エドワルド・キンチ、試業科教師ジェームス・ベクビー、英語学教師ウイリアム・ダグラス・コックス、獣医学教師ジョン・アダム・マックブライトの5名が選ばれる。農業試業科以外の講義は英語で行われ、訳官が通訳して生徒に伝えられる。

  • 1878(明治11)年1月24日、農事修学場、駒場野に校舎を新築・移転。駒場農学校に改称。アメリカ農業を教育の柱にした札幌農学校に対し、専らドイツ農法に範を求める。欧米の農作物を試植する泰西農場、在来農法の改良を期した本邦農場などの農場のほか、園芸・植物園・家畜病院・気象台など備えた農業の総合教育・研究機関となる。当初の敷地面積約6万坪。内務卿・大久保利通は開会式で、「本邦初の農学校の建築にあたり、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ。」と述べる。

  • 1881(明治14)年、蚕業試験掛、管轄が内務省より農商務省に移管。

  • 1882(明治15)年、蚕業試験掛、蚕業試験場に改称。

  • 1884(明治17)年、駒場農学校、敷地面積は次第に拡張され、約16万5千坪に達する。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

帝国大学農科大学

  • 1890(明治23)年 松井直吉(34歳)帝国大学農科大学設立。初代農科大学長に。以後、死去まで長年ににわたり農科大学長を務める。教授兼務、化学を教える。東京化学会(現・日本化学会)会長を務めるなど、日本の化学の中心となる。

  • 1891(明治24)年、蚕業試験場、農商務省仮試験場蚕事部に改称。

  • 1893(明治26)年、農商務省仮試験場蚕事部、蚕業試験場に戻る。

  • 1896(明治29)年、蚕業試験場、蚕業講習所に改称。

  • 1899(明治32)年、蚕業講習所、東京蚕業講習所に改称。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1914(大正3)年、東京蚕業講習所、東京高等蚕糸学校に改称。

1919(大正8)年2月7日公布 1919(大正8)年4月1日施行 第二次帝国大学

帝国大学分科大学を廃止。帝国大学を複数学部を総合して構成。学部と大学院を設置。

  • ​1935(昭和10)年4月、東京帝国大学農学部実科東京帝国大学より独立。東京高等農林学校(現・東京農工大学)創立。背景に専門学校令により高等教育機関が随時拡張、全国で農林系専門学校が相次いで設立されたことで実科の廃止論があがっていた。東京帝国大学農学部第一高等学校との敷地交換により駒場から本郷に移転する際、付属実科を本郷に移転せず分離独立という手段で存続。

  • 1935(昭和10)年 石井悌(42歳)東京帝国大学より独立・創立された東京高等農林学校(現・東京農工大学)教授に。農学部長を務める。

  • 1935(昭和10)年7月、東京高等農林学校、府中町新校舎に移転。

  • 1940(昭和15)年、東京高等蚕糸学校小金井に移転。

1943(昭和18)年2月16日 専門学校令改正

実業学校令廃止、専門学校と実業専門学校の区別廃止。翌年、各種専門学校は経済専門学校(旧高等商業学校・旧高商)・工業専門学校(旧高等工業学校・旧高工)・農林専門学校(旧高等農業学校・旧高農)・外事専門学校(旧外国語学校)など改称。

  • 1944(明治19)年、東京高等農林学校、東京農林専門学校​に改称。

  • 1944(明治19)年、東京高等蚕糸学校、東京繊維専門学校​に改称。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法

文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。

  • 1949(昭和24)年5月31日、東京農林専門学校と東京繊維専門学校を内包、学制改革により新制・東京農工大学発足。農学部・繊維学部設置。

  • 1949(昭和24)年6月 石井悌(56歳)、新制大学として東京農工大学発足、初代校長に。

  • 1962(昭和37)年、東京農工大学、繊維学部を工学部に改称。

東京農工大学年表

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