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ダイガクコトハジメ - 大久保利通

大久保利通

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  • 薩摩藩校・造士館

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  • 1830(文政13/天保元)年9月26日(旧暦・8月10日) 大久保利通(1歳)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と母・福の長男として生まれる。幼名、正袈裟。家格は御小姓与と呼ばれる身分で、下級藩士であった。

  • 大久保利通(幼少期)、加治屋町に移住。下加治屋町の郷中や薩摩藩校・造士館にて、西郷隆盛・税所篤・吉井友実・海江田信義らと共に学問を学ぶ。親友・同志に。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていた。

  • 1846(弘化3)年 大久保利通(17歳)、薩摩藩記録所書役助として出仕。

  • 1850(嘉永3)年 大久保利通(21歳)、お由羅騒動。父・大久保利世と共に連座して罷免、謹慎処分に。大久保家は貧しい生活を強いられる。

  • 1853(嘉永6)年5月 大久保利通(24歳)、島津斉彬が藩主になると謹慎を解かれる。薩摩藩記録所に復職、御蔵役に。

  • 1857(安政4)年10月1日 大久保利通(28歳)、西郷隆盛と共に、徒目付に。精忠組の領袖として活動。

  • 1858(安政5)年 大久保利通(29歳)、島津斉彬の死後、失脚した西郷隆盛に代わり、薩摩藩新藩主・島津茂久の実父・島津忠教に接近。税所篤の兄・吉祥院の住職であった税所乗願が囲碁相手であったことから、税所乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。

  • 1860(安政7/万延元)年3月 大久保利通(31歳)、勘定方小頭格に。

  • 1861(万延2/文久元)年10月23日 大久保利通(32歳)、御小納戸役に抜擢され、藩政参与。家格も一代新番に。

  • 1862(文久2)年1月14日(旧暦・12月15日) 大久保利通(33歳)、藩主・島津久光より一蔵の名を賜り、通称を改める。

  • 1862(文久2)年 大久保利通(33歳)、藩主・島津久光を擁立。京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと共に公武合体路線を指向。一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進める。

  • 1862(文久2)年5月20日 大久保利通(33歳)、御小納戸頭取に昇進。小松清廉、中山中左衛門と並び、島津久光の側近に。

  • 1863(文久3)年1月4日 板垣退助(27歳)、高輪の薩摩藩邸にて、大久保一蔵に会う。

  • 1863(文久3)年2月10日 大久保利通(34歳)、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進。

  • 1865(元治2/慶応元)年1月下旬-5月 大久保利通(36歳)、利通と改諱。

  • 1865(元治2/慶応元)年 品川弥二郎(23歳)、木戸孝允と共に上京。情報収集・連絡係として薩長同盟の成立に尽力。

  • 1866(慶応2)年 大久保利通(37歳)、第二次長州征討に反対。薩摩藩の出兵拒否を行う。

  • 1867(慶応3)年5月 大久保利通(38歳)、雄藩会議の開催を小松清廉や西郷隆盛と計画。四侯会議を開催。しかし、四侯会議が徳川慶喜によって頓挫させられたため、公武合体路線を改め、武力倒幕路線を指向することに。

  • 1867(慶応3)年5月21日 板垣退助(31歳)、薩土密約、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、土佐藩の谷干城・毛利恭助らと共に薩摩藩の西郷吉之助らと武力討幕を議す。「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語る。

  • 1867(慶応3)年9月8日 大久保利通(38歳)、三藩盟約、武力による新政府樹立を目指す小松清廉・西郷隆盛と共に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明ける。それを機に、京都において薩摩藩が大久保利通と西郷隆盛、長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し、出兵協定を結ぶ。

  • 1867(慶応3)年10月14日-10月15日 大久保利通(38歳)、正親町三条実愛より、倒幕の密勅の詔書を引き出す。小松清廉・西郷隆盛と共に署名、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たす。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 大久保利通(38歳)、岩倉具視ら倒幕派公家と共に、王政復古の大号令を計画、実行。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月 折田彦市(20歳)、薩摩藩主・島津茂久に従い、上洛。選ばれて岩倉具視の御附役に。西郷隆盛の推薦とも、大久保利通の推薦とも言われる。岩倉具視より厚い信頼を受ける。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大隈重信(31歳)、明治維新、幕府役人が去った長崎の管理を行うため、佐賀藩命により長崎赴任。仮政府を采配。2月14日、朝廷より長崎裁判所総督・澤宣嘉と参謀・井上馨が赴任、引継ぎを行う。長崎裁判所参謀助役として、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を処理。井上馨、「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその語学・行政力を評価、木戸孝允に明治新政府への登用を推薦。徴士参与職・外国事務局判事に。12月18日には前任の小松清廉(小松帯刀)の推挙により、外国官副知事に。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月23日 大久保利通(39歳)、太政官にて、大阪への遷都を主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年 前島密(34歳)、兵庫奉行支配役に。翻訳方兼務。江戸に戻り、勘定役格徒歩目付役に。平岡一に属し、官軍迎接役として小田原まで出張するも果たせず。江戸民生の安寧に努める。大阪まで出向き、大久保利通に江戸遷都を建言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 伊藤博文(28歳)、外国事務総裁・東久世通禧に見出され、神戸事件と堺事件の解決に奔走。出世の足掛かりに。

  • 明治維新後、伊藤博文、博文と改名。長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与・外国事務局判事・大蔵少輔兼民部少輔・初代兵庫県知事(官選)・初代工部卿・宮内卿など明治新政府の様々な要職を歴任。木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 江藤新平(35歳)、岩倉具視に対し、大木喬任と連名で江戸を東京と改称、遷都すべきこと(東京奠都)を献言。献言が認められる。明治天皇が行幸、江戸は東京と改称される。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1869(明治2)年1月 伊藤博文(27歳)、兵庫県知事時代、『国是綱目』いわゆる『兵庫論』を捧呈。「君主政体」・「兵馬の大権を朝廷に返上」・「世界万国との通交」・「国民に上下の別をなくし自在自由の権を付与」・「世界万国の学術の普及」・「国際協調・攘夷の戒め」を主張。

  • 伊藤博文、明治新政府に提出した『国是綱目』が当時極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたため、大久保利通や岩倉具視の不興を買う。大蔵省の権限を巡る論争でも、大久保利通と対立関係に。

  • 1869(明治2)年1月10日 大隈重信(32歳)、再び参与に。贋金問題が外交懸案となっていたことを背景に、イギリス公使パークスと対等に交渉ができることから会計官御用掛を兼任。3月30日、会計官副知事に。高輪談判処理や新貨条例制定、版籍奉還への実務など担務。

  • 1869(明治2)年3月17日(旧暦・2月5日) 大隈重信(32歳)外国官判事兼会計御用掛として造幣局設立を建白、貨幣制度改革を主導。3月4日、三条実美に対して通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白、了承される。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。

  • 1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任、内政の中枢を握る。木戸孝允らと共に版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。当初は保守的・斬新的態度をとり、木戸孝允・大隈重信ら革新的・開明的態度に政策・政治勢力で一歩譲る立ち位置に。岩倉遣欧使節団にて欧米先進諸国を視察、イギリスにおける工業と貿易の発展、プロイセン(ドイツ)における政治体制と軍事力の拡充などを目の当りにし、強い衝撃を受ける。大蔵卿就任後、富国強兵・殖産興業政策実行の舵を取る。

  • 1870(明治3)年 大木喬任(39歳)、民部大輔に。戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈重信と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行う。後に、民部卿に就任。大隈重信の巻き返しにより、民部省は大蔵省に統合されることに。

  • ​1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手

  • 江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。​フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。​

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大隈重信(34歳)、民部省を改めて大蔵省に合併。巨大官庁・大蔵省を誕生させる。地租改正などの改革に当たると共に、殖産興業政策を推進。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大木喬任(40歳)、大蔵省が再び民部省を合併、民部省廃止。文部省設立に伴い、盟友・江藤新平の後任として初代文部卿に。学制施行に尽力。

  • 大木喬任、初代文部卿として学制頒布を掲げる中、予算問題で大蔵省・井上馨と対立

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

  • 1871(明治4)年 大隈重信(34歳)岩倉遣欧使節団による大久保利通らの外遊で留守政府を任せられると、三条実美・西郷隆盛らの信任を得て勢力拡大。大蔵大輔に任じられた井上馨と対立するように。

  • 1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

  • 江藤新平、政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。

  • 江藤新平、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める。政府内保守派は、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(後のドイツ帝国)を範としており、厳しく非難される。また、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省・井上馨との確執を招く。

  • 1872(明治5)年 伊藤博文(32歳)、大蔵兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

  • 1872(明治5)年 - 大倉喜八郎(36歳)、欧米の商業を学ぶため、米国から欧州まで1年以上かけて外遊。ロンドン・ローマに滞在中、岩倉遣欧使節団大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らと殖産興業を話し合う。この出会いにより運命を大きく変わる。

  • 1873(明治6)年5月 江藤新平(40歳)、官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥・山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及。予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込む。

  • 1873(明治6)年 渋沢栄一(34歳)、大蔵省内で予算編成を巡り、大久保利通大隈重信と対立。井上馨と共に、大蔵省退官。

  • 1873(明治6)年5月 大隈重信(36歳)、井上馨の大蔵省辞職を受け、大蔵省事務総裁に。大蔵省の実権を握る。岩倉遣欧使節団から大久保利通が帰国後も、実権を握り続ける。

  • 1873(明治6)年5月26日 伊藤博文(33歳)岩倉遣欧使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を開始。全権委任状を取るため、大久保利通と共に一旦帰国。しかし、取得に5か月もかかったことで木戸孝允との関係も悪化。改正交渉中止。木戸孝允との不仲は、のちに和解。

​1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視

・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

  • 1873(明治6)年10月24日 江藤新平(40歳)、朝鮮出兵を巡る征韓論問題より発展した政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野。

  • 1873(明治6)年10月 大木喬任(42歳)、参議兼司法卿に。士族の反乱(萩・秋月の乱)の司法処理に力を注ぐ。

  • 1873(明治6)年 伊藤博文(33歳)、明治六年政変、内治優先路線を掲げた大久保利通・岩倉具視・木戸孝允らを支持。大久保利通の信任を得る。木戸孝允と疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保利通・岩倉具視と連携する道を選ぶ。

  • 1873(明治6)年10月25日 大隈重信(36歳)、明治六年政変後、参議兼大蔵卿に。大久保利通と連名にて、財政についての意見書を太政官に提出。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(44歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動

明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。

自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。

  • 1874(明治7)年1月12日 板垣退助(38歳)、『五箇条の御誓文』の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成。後藤象二郎・江藤新平らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出するも、却下される。

  • 1874(明治7)年1月12日 江藤新平(41歳)、愛国公党より政府に対し『民撰議院設立建白書』を提出。後藤象二郎、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋らと共に署名。佐賀への帰郷を決意。大隈重信板垣退助・後藤象二郎らは、帰郷が大久保利通の術策に嵌るものであることを看破、慰留の説得を試みるも、全く耳を貸さず。翌13日、船便で九州へ向かう。

  • 1874(明治7)年2月16日 江藤新平(41歳)、憂国党が武装蜂起、士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発。県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃。その約半数に損害を与え、遁走させる。

  • 1874(明治7)年2月 大久保利通(45歳)、江藤新平・島義勇らが率いる不平士族による初の大規模反乱・佐賀の乱が勃発。自ら鎮台兵を率い遠征。

  • 1874(明治7)年4月、内務省の管轄となった内藤新宿試験場に、農業・牧畜についての西洋式技術導入を目的とする教育施設として農事修学場(後に駒場農学校)設置。農学・獣医学・農芸化学・農学予科・農学試業科などの教師を外国より招聘する計画が議決される。

  • 1874(明治7)年4月4日 大隈重信(37歳)大久保利通と共に台湾問題を担当、積極的に出兵方針を推進。台湾蕃地事務局長官に。イギリスとアメリカより抗議があり、政府として出兵を一時見合わせ。この間、西郷隆盛が独断で台湾出兵、政府として追認せざるを得ず。大久保利通らの方針に従い、早期撤兵。左大臣・島津久光より免職を要求されるも、却下。

  • 1874(明治7)年4月10日 板垣退助(38歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達・気風の養成・福祉の上進・自由の進捗を目的に政治団体・立志社結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う立志学舎創立。教員に、慶應義塾を卒業した江口高邦・深間内基・矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造・久米弘行・森春吉が駆けつける。慶應義塾と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)、明治六年政変で板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下ると、高知の立志学舎慶応義塾門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援。国会開設運動の先頭に立ち、郵便報知新聞に『国会論』と題する社説を掲載。

  • 福澤諭吉板垣退助の愛国社から頼まれ、『国会を開設するの允可を上願する書』起草に助力。

  • 1874(明治7)年4月13日 江藤新平(41歳)、征韓党の首領として、佐賀の乱の責により処刑される。享年41歳。辞世の句「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」。後に、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。贈正四位。「維新の十傑」・「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。

  • 1874(明治7)年9月-10月31日 大久保利通(45歳)、台湾出兵、戦後処理のため全権弁理大臣として清に渡る。交渉の末、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印。

  • 1875(明治8)年5月 大久保利通(46歳)、台湾出兵の経験から、太政大臣・三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出。

  • 1875(明治8)年1月-2月 伊藤博文(35歳)、盟友・井上馨と共に木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎ、大阪会議を斡旋。

  • 1875(明治8)年1月-2月 大久保利通(46歳)、参議・伊藤博文と前大蔵大輔・井上馨の斡旋により、木戸孝允・板垣退助と大阪にて秘密政治会談(大阪会議)。1873(明治6)年の政変、1874(明治7)年の民撰議院設立建白・佐賀の乱・台湾出兵などにより、大久保利通を中心とする政府が孤立、政局は危機に瀕する。この窮状を打破するため、先に下野した木戸孝允の政府復帰を望み、板垣退助も参加させる形で会談にこぎつける。元老院・大審院の創設、地方官会議の開催、参議と省の卿との分離など政体改革構想で合意。木戸孝允・板垣退助が参議に復帰。4月、参議省卿の分離問題を除く大阪会議の合意事項が実現。しかし、改革実施過程で再び対立。10月、板垣退助辞職。一連の改革により、政府は安定度を増す。

  • 1875(明治8)年 大隈重信(38歳)、大阪会議の開催を知らされず。関係が悪化していた木戸孝允の政界復帰は、自身の権力基盤を脅かすことに。この頃から、体調不良を理由に出仕せず。三条実美・岩倉具視・大久保利通は大蔵卿解任を検討するも、後任候補の伊藤博文が辞退したこと、大隈重信以上の財政家の不在を理由に慰留・続投を促す。しかし、復帰した木戸孝允・板垣退助も辞任を要求。大久保利通に庇護される形に。10月29日、島津久光・板垣退助が辞職、木戸孝允が病状悪化、自身への攻撃は消滅。

  • 1875(明治8)年10月29日 板垣退助(39歳)、大阪会議、参議に復帰するも民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞任。再び自由民権運動に身を投じる。

  • 1876(明治9)年 大久保利通(47歳)ヨーロッパ全権公使に依頼、農事修学場の外国人教師の人選に取り組む。農学教師ジョン・デイ・カンスタンス、農芸化学教師エドワルド・キンチ、試業科教師ジェームス・ベクビー、英語学教師ウイリアム・ダグラス・コックス、獣医学教師ジョン・アダム・マックブライトの5名が選ばれる。農業試業科以外の講義は英語で行われ、訳官が通訳して生徒に伝えられる。

  • 1876(明治9)年2月 福澤諭吉(42歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤諭吉が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

  • 1876(明治9)年 大倉喜八郎(40歳)大久保利通とロンドンで会見。要請・協議した被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(後に千住製絨所)開設。払い下げは遅れる。

  • 1876(明治9)年11月 折田彦市(28歳)、帰国。大久保利通の推薦により、文部省督学局入省。学監ダビッド・モルレーの通訳を務める。東京府の学校視察に同行。

  • 1877(明治10)年 大久保利通(48歳)、西南戦争、京都にて政府軍を指揮。

  • 1877(明治10)年8月21日-11月30日 大久保利通(48歳)、総裁として、第1回内国勧業博覧会を開催。

  • 大久保利通、宮内省侍補からの要請に乗る形により、宮内卿就任。明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱く。

  • 1878(明治11)年1月24日、農事修学場、駒場野に校舎を新築・移転。駒場農学校に改称。アメリカ農業を教育の柱にした札幌農学校に対し、専らドイツ農法に範を求める。欧米の農作物を試植する泰西農場、在来農法の改良を期した本邦農場などの農場のほか、園芸・植物園、家畜病院、気象台など備えた農業の総合教育・研究機関となる。当初の敷地面積約6万坪。内務卿・大久保利通は開会式で、「本邦初の農学校の建築にあたり、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ。」と述べる。

  • 1878(明治11)年5月14日 大久保利通(49歳)、紀尾井坂の変、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂にて6人の不平士族の手によって暗殺される。享年49歳。維新の三傑・維新の十傑の1人に挙げられる。

  • 1878(明治11)年 伊藤博文(28歳)大久保利通が暗殺される。内務卿を継承、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう。

 

大久保利通

おおくぼとしみち

1830(文政13)年9月26日(旧暦・8月10日) - 1878(明治11)年5月14日

明治維新元勲、参議、大蔵卿、初代内務卿、宮内卿農事修学場(後に駒場農学校、現・東京大学農学部)設立、岩倉遣欧使節団、「維新の三傑・維新の十傑

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