ダイガクコトハジメ - 駒場農学校
駒場農学校
創立 : 1874(明治7)年
創立者 : 大久保利通
前史 :
内務省管轄、農事修学場 → 駒場農学校 → 駒場農学校、内務省より農商務省管轄に → 駒場農学校と東京山林学校が合併、東京農林学校に → 帝国大学農科大学
内務省管轄、樹木試験場 → 樹木試験場、内務省より農商務省管轄に → 東京山林学校 → 駒場農学校と東京山林学校が合併、東京農林学校に → 帝国大学農科大学
東京農林学校別科 → 帝国大学農科大学乙科 → 東京帝国大学農科大学乙科 → 東京帝国大学農学部実科 → 東京帝国大学より独立、東京高等農林学 → 東京農林専門学校 → 東京農工大学農学部
帝国大学農科大学付設農業教員養成所 → 東京農業教育専門学校 → 東京教育大学に包括 → 筑波大学生物資源学類
「駒場農学校」年表
1873(明治6)年11月10日
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大久保利通(43歳)、「岩倉遣欧使節団」外遊において、日本の政治体制のあるべき姿として、先進国のイギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。ビスマルクの下、官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構として内務省を設立。初代内務卿(参議兼任)として実権を握る。学制や地租改正、徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、殖産興業政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、「有司専制」として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。
1874(明治7)年
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内務省、農業・牧畜について西洋式技術の導入を目的に、内務省勧業寮内藤新宿出張所に、「農事修学場」設置。あわせて、三田育種場を開設。
1876(明治9)年
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大久保利通(45-46歳)、ヨーロッパ全権公使に依頼、「農事修学場」外国人教師の人選に取り組む。農学教師ジョン・デイ・カンスタンス、農芸化学教師エドワルド・キンチ、試業科教師ジェームス・ベクビー、英語学教師ウイリアム・ダグラス・コックス、獣医学教師ジョン・アダム・マックブライトの5名が選ばれる。農業試業科以外の講義は英語で行われ、訳官が通訳して生徒に伝えた。
1877(明治10)年
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内務省「樹木試験場」設置。
1878(明治11)年1月24日
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「農事修学場」、駒場野に校舎を新築、移転。「駒場農学校」に改称。アメリカ農業を教育の柱にした「札幌農学校」に対し、専らドイツ農法に範を求める。欧米の農作物を試植する「泰西農場」、在来農法の改良を期した「本邦農場」などの農場のほか、園芸・植物園、家畜病院、気象台など備えた農業の総合教育・研究機関となる。当初の敷地面積、約6万坪。内務卿・大久保利通は開会式で、「本邦初の農学校の建築にあたり、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ。」と述べる。
1881(明治14)年
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「駒場農学校」と「樹木試験場」、管轄が内務省より農商務省に移管。
1882(明治15)年
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「樹木試験場」、「東京山林学校」に改称。
1884(明治17)年
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「駒場農学校」、敷地面積は次第に拡張され、約16万5千坪に達する。
1886(明治19)年5月22日
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前田献吉(50歳)、「駒場農学校」校長に。
1886(明治19)年7月22日
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前田献吉(50歳)、学校再編により、「東京農林学校」校長に。
1886(明治19)年
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財政難を理由に、「駒場農学校」と「東京山林学校」が合併、「東京農林学校」に。本科と別科を設置。
1890(明治23)年
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濱尾新(40-41歳)、文部省専門学務局長に。農商務省主管「東京農林学校」の「帝国大学」合併を推進。
1890(明治23)年
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「東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。「帝国大学農科」再編にあたり、「帝国大学」側は一時この合併に猛反発、「帝国大学」評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。大学評議会への諮問がなかったこと、「東京農林学校」の学科水準が「帝国大学」の分科大学の程度にないという判断がなされたこと、「東京農林学校予科」の教育水準などが理由に。初代学長に、松井直吉。
1890(明治23)年
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松井直吉(32-33歳)、「帝国大学農科大学」設立、初代学長に。
1898(明治31)年
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「東京帝国大学農科大学乙科」、「東京帝国大学農科大学実科」に。「札幌農学校実科」と共に、旧制専門学校レベルの教育機関としての役割を果たす。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1905(明治38)年12月2日
1919(大正8)年
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「東京帝国大学農科大学実科」、「東京帝国大学農学部実科」に。
1935(昭和10)年4月
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「東京帝国大学農学部実科」、「東京帝国大学」より独立、「東京高等農林学校」創立。背景に、専門学校令により高等教育機関が随時拡張、全国で農林系専門学校が相次いで設立され、実科の廃止論があがっていた。「東京帝国大学農学部」が旧制「第一高等学校」との敷地交換により駒場から本郷に移転する際、付属実科を本郷に移転せず分離独立という手段で存続。
1937(昭和12)年
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「東京帝国大学付属農業教員養成所」、「東京帝国大学農学部」の本郷移転時に駒場に残り、「東京農業教育専門学校」に。
1944(明治19)年
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「東京高等農林学校」、「東京農林専門学校」に改称。
1949(昭和24)年5月31日
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学制改革により、「東京農工大学」設立。「東京農林専門学校」と「東京繊維専門学校」を内包。
1949(昭和24)年
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「東京農業教育専門学校」、新制「東京教育大学」の発足に伴い、包括される。「筑波大学生物資源学類」の源流に。