ダイガクコトハジメ - 司法省法学校
司法省法学校
創立 : 1871(明治4)年9月
創立者 : 江藤新平
前史 :
明法寮 → 司法省法学校 → 文部省管轄に、東京法学校 → 東京大学法学部に統合、東京大学法学部仏法科に
「司法省法学校」年表
1871(明治4)年5月11日/6月28日
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楠田英世(40歳)、「明法寮」権頭に。
1871(明治4)年9月
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江藤新平、フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
1872(明治5)年
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鶴田皓(35-36歳)、江藤新平の命により、司法省調査団として井上毅らと共に渡仏。ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの講義を受ける。
1872(明治5)年 - 1873(明治6)年
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ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを教員に迎え、フランス語による本格的な法学教育を開始。
1874(明治7)年
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鶴田皓(37-38歳)、「明法寮」権頭に。
1875(明治8)年5月
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司法省所管の法学校、「司法省法学校」設立。麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩邸の建物を校舎に。
1876(昭和9)年
代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立、前後より各地で試験準備のための私塾的な法律学校が開校。
1876(昭和9)年7月
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第一期生20名、卒業。この時点では、法律学士の称号授与の権能を有していなかったため、称号授与は行われず。第一期生はギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる旧民法など法典編纂に協力、民法典論争において断行派の中核に。
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第一期生卒業を受け、第二期生入学。第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)、定員100名に増員。予科はフランス語を中心とする普通教育、本科はフランス語による法学教育が行われる。第一期・第二期卒業生の多くが、フランス法系私立法律学校の創立者や校長、講師となる。
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フランス人御雇い外国人ジョルジュ・アッペールが法学教育を担当。また、裁判官の速成教育のため修業年限2年の「出仕生徒」の制度を新設。
1880(明治13)年
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定、「代言人規則」改正により資格試験が厳格化、本格的な法律学校が設立されるように。
1880(明治13)年9月14日
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相馬永胤(29歳)、「慶應義塾夜間法律科」を独立させる形で、「三叉学舎法律経済科」、「東京攻法館法律科」の3社を統合、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格と共に「専修学校」創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。「明治法律学校」、「東京専門学校」、「東京法学校」、「英吉利法律学校」と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、「簿記講習所」を仮校舎として利用。
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法律学を本格的に教える教育機関は、「東京大学法学部」、「司法省法学校」など極少数であった。「東京大学法学部」が英語、「司法省法学校」が仏語で教授していたのに対し、「専修学校法律科」は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学に。多くの学生を集める。
1884(明治17)年7月
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二期生、卒業。入学生104名中、卒業生37名。法律学士の称号を授与(「東京大学法学部」卒業生の称号は法学士)。第一期生20名およびフランス留学5名にも法律学士の称号が与えられる。
1884(明治17)年12月
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司法省より文部省に移管、「東京法学校」に。
1885(明治18)年
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「東京大学法学部」、成立に至るまでの期間、フランス法学習者で成績優秀者は「司法省法学校」へ転学したり、フランス留学するなど流出。一部の学科を除き教授言語を英語に統一したため、イギリス法学系の色が強くなる。このことが、「民法典論争」を引き起こすことに。