top of page

東京大学

古市公威

ふるいちこうい

1854(嘉永7)年7月12日/9月24日 - 1934(明治9)年1月28日

1854(嘉永7)年7月12日/9月24日

  • 古市公威、江戸の姫路藩屋敷に姫路藩士・古市孝の長男として生まれる。

1869(明治2)年

1870(明治3)年

  • 古市公威(15-16歳)、姫路藩の貢進生として、「開成学校」入学。

1873(明治6)年

  • 古市公威(18-19歳)、「開成学校」に設置された諸芸学科で学ぶ。

1875(明治8)年

  • 古市公威(20-21歳)、諸芸学修行のため、文部省最初の留学生として、欧米諸国へ派遣。

1879(明治12)年8月 - 1880(明治13)年

  • 古市公威(24-26歳)、フランスの「中央工業大学(エコール・サントラル)」卒業。工学士の学位取得。同年、「パリ大学理学部」入学。翌1880(明治13)年、卒業。理学士の学位取得。

1880(明治13)年12月

  • 古市公威(26歳)、帰国後、内務省土木局雇いに。内務技師として、現場勤務。

1881(明治14)年

  • 古市公威(26-27歳)、「東京大学」講師を兼任。以後、技術官僚と大学教官を兼務。

1886年(​明治19)年

  • 帝国大学令により、「東京大学工芸学部」と合併、「帝国大学工科大学」となる。初代学長に、古市公威

1886(明治19)年5月1日

1886(明治19)年5月

  • 古市公威(31歳)、初代文部次官・辻新次らと共に「仏学会(現在の日仏協会)」設立。

1886(明治19)年11月

  • 古市公威(32歳)、「東京仏学校」設立。初代校長に。

1894(明治27)年11月

  • 古市公威(40歳)、内務省の初代土木技監に就任。土木行政の改善を図り、土木法規を制定。技術上・行政上に非凡の才能を振るい、近代土木界の最高権威となる。全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作る。

  • 古市公威、1905(明治38)年完成の横浜港の建設に尽力。横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成。この設計を担当。

  • 古市公威、内務省にて、軌道条例を鉄道作業局と共同所轄。この関係から、日本初の都市間高速電車となる阪神電気鉄道の成立にも関与。

1901(明治34)年

  • 古市公威(46-47歳)、渡辺洪基に継ぎ、「工手学校」管理長に。以後30余年にわたり​、学院の発展に尽力。

1903(明治36)年3月31日

  • 古市公威(48歳)、日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道作業局の長官に。在任時、中央本線の開業記念式典が行われる。

1904(明治37)年 - 1907(明治40)年6月

  • 古市公威(49-52歳)、日露の緊張が高まったこともあり、鉄道作業局長官を辞任。戦時の補給路となる京釜鉄道の官選総裁に。京城(ソウル)-釜山間の速成工事の指揮。日露戦争後、韓国統監府鉄道管理局の長官にそのまま留任。韓国の鉄道整備が一段落したことを受け、長官を辞任。帰国。

1920(大正9)年8月29日

  • 古市公威(65歳)、ヨーロッパ視察を経て日本にも地下鉄が必要と考えた早川徳次の働きかけに賛成、大いに支援。日本最初の地下鉄である東京地下鉄道の初代社長に。

1927(大正16)年10月

  • 古市公威(73歳)、財団法人理化学研究所の第2代所長に。

1934(明治9)年1月28日

  • 古市公威(79歳)、死去。享年、79歳。

古市公威
bottom of page