東京高等工藝学校
松岡壽
まつおかひさし
1862(文久2)年2月5日/3月5日 - 1944(昭和19)年4月28日
1862(文久2)年2月5日/3月5日
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松岡壽、岡山に岡山藩士・松岡隣の次男として生まれる。
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松岡壽、川上冬崖が主催する「聴香読画館」で洋画の基礎を学ぶ。
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松岡壽、「工部美術学校」入学。アントニオ・フォンタネージに師事。
1878(明治11)年
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松岡壽(15-16歳)、アントニオ・フォンタネージ帰国。後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、浅井忠と共に「工部美術学校」退学。アントニオ・フォンタネージに師事。洋画家初の団体、「十一会」結成。
1880(明治13)年 - 1888(明治21)年
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松岡壽(17-26歳)、ローマ留学。チェーザレ・マッカリに絵画を学ぶ。
1889(明治22)年
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日本最初の国立美術教育機関「工部美術学校」、西洋美術教育のみで発足するも、財政事情悪化に加え、欧化政策の反動から国粋主義が台頭、1883(明治19)年に廃校。1889(明治22)年、新たに国立の美術教育機関「東京美術学校」が開校するも、西洋美術が排されたため、「工部美術学校」出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、「明治美術会」発足。当初は、反「東京美術学校」の一面を備えていたが、黒田清輝が入会、政府への人脈を獲得。
1889(明治22)年
1896(明治29)年
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黒田清輝(29-30歳)、「明治美術会」脱退、「白馬会」結成。「東京美術学校」に西洋画科を発足。以後の日本洋画の動向を決定付ける。
1898(明治31)年
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松岡壽(35-36歳)、「明治美術会」新派・黒田清輝を中心に設立された「東京美術学校西洋画科」に、旧派側として参画、教授に。
1899(明治32)年
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松岡壽(36-37歳)、海外留学。帰国後、「京都高等工芸学校」赴任。
1906(明治39)年
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松岡壽(43-44歳)、西洋画地位向上に努めると共に、美術工芸品の向上にも尽力。特許局審査官として、産業としての工芸品の発展にも尽くす。この手腕を「東京高等工業学校」手島精一校長に見込まれ、「東京高等工業学校工業図案科」科長として迎えられる。
1914(大正3)年
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「東京高等工業学校工業図案科」、「東京美術学校図案科」に併合され、廃止に。在学生、「東京美術学校」転入。しかし、「機能美」実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、また、日本美術に重きを置き、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための「産業工芸」の必要性はすぐには理解されず。
1919(大正8)年8月20日
1921(大正10)年12月9日
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「東京高等工藝学校」設立。初代校長に、松岡壽。
1921(大正10)年12月10日
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松岡壽(59歳)、「東京高等工藝学校」初代校長に。
1925(大正14)年6月
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松岡壽(63歳)、「東京高等工藝学校」第3代校長に。
1944(昭和19)年4月28日
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松岡壽(82歳)、死去。享年、82歳。
