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ダイガクコトハジメ - 東京高等工藝学校

東京高等工藝学校

創立  : ​1921(大正10)年12月9日

創立者 : 松岡壽

​前史  :

千葉医科大学東京高等工藝学校、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括 → 千葉大学

​東京工業学校工業図案科 → 東京高等工業学校工業図案科 → 東京美術学校図案科東京高等工藝学校 → 東京工業専門学校 → 千葉大学東京工業専門学校千葉大学工芸学部 → 千葉大学工学部

高等商業学校附属商工徒弟講習所職工科 → 東京職工学校職工徒弟講習所 → 東京高等工業学校附属職工徒弟学校 → 東京高等工藝学校附属工芸実修学校 → 千葉大学付属高等学校に → 東京工業大学付属高等学校に移管

​「東京高等工藝学校​」年表

1886(明治19)年1月

1888(明治21)年1月

1899(明治32)年9月

  • 東京工業学校工業図案科」、工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない、という考えに基づき設置。

1890(明治23)年1月

1906(明治39)年

- 1914(大正3)年

  • 安田禄造(-40歳)、「東京高等工業学校工業図案科」科長・松岡壽の働きかけにより、教員の海外派遣が実現。最初の派遣者に。オーストリア留学。「ウィーン工芸学校」にて、建築家・デザイナーとしてモダンデザインの道を切り拓いた先駆者の一人・ホフマンに師事。ホフマンの現実的で実用的な様式を追及する姿勢が、「東京高等工業学校図案科」が目指す方向と合致。その後、西欧各地を巡る。

1914(大正3)年

1914(大正3)年

  • 東京高等工業学校工業図案科」、「東京美術学校図案科」に併合され、廃止に。在学生、「東京美術学校」転入。しかし、「機能美」実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、また、日本美術に重きを置き、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための「産業工芸」の必要性はすぐには理解されず。

  • 松岡壽東京美術学校図案科」科長として、安田禄造らと共に廃止反対。工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続ける。「東京美術学校」に移った関係者の不満も次第に高まり、分離独立の機運が高まる。

1919(大正8)年8月20日

​1921(大正10)年12月9日

  • 「東京高等工藝学校」設立。初代校長に、松岡壽

​1921(大正10)年12月10日

1923(大正12)年

1924(大正13)年3月29日

​1925(大正14)年6月

1928(大正17)年4月

1944(昭和19)年

  • 「東京高等工藝学校」、「東京工業専門学校」に改称。

1945(昭和20)年4月5日

  • 東京大空襲、「東京工業専門学校」芝浦校舎が焼失。千葉県松戸の「陸軍工兵学校」跡地に移転。

1946(昭和21)年3月

学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。

1949(昭和24)年5月31日公布・施行

国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。

1949(昭和24)年5月31日

  • 国立学校設置法により、「千葉医科大学」を主な母体に「千葉大学」設立。「東京工業専門学校」は「千葉大学」に内包され、「千葉大学東京工業専門学校」に。

1951(昭和26)年4月1日

 

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