ダイガクコトハジメ - 千葉大学
千葉大学
第一高等中学校医学部創立 : 1887(明治20)年9月
東京高等工藝学校創立 : 1921(大正10)年12月9日
千葉医科大学設立 : 1923(大正12)年4月
千葉大学設立 : 1949(昭和24)年5月31日
第一高等中学校医学部創立者 : 長尾精一
東京高等工藝学校創立者 : 松岡壽
前史 :
千葉医科大学、東京高等工藝学校、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括 → 千葉大学
共立病院 → 公立千葉病院と改称、公立千葉病院医学教場を付設 → 県立千葉医学校および県立千葉医学校付属病院設置 → 高等中学校令に伴い官立に、第一高等中学校医学部 → 第一高等学校医学部 → 千葉医学専門学校 → 千葉医科大学 → 千葉大学医学部
東京工業学校工業図案科 → 東京高等工業学校工業図案科 → 東京美術学校図案科→ 東京高等工藝学校 → 東京工業専門学校 → 千葉大学東京工業専門学校 → 千葉大学工芸学部 → 千葉大学工学部
千葉師範学校、千葉青年師範学校を包括 → 千葉大学学芸学部 → 千葉大学教育学部
千葉県立園芸専門学校 → 千葉県立高等園芸学校 → 千葉高等園芸学校 → 千葉農業専門学校 → 千葉大学園芸学部
高等商業学校附属商工徒弟講習所職工科 → 東京職工学校職工徒弟講習所 → 東京高等工業学校附属職工徒弟学校 → 東京高等工藝学校附属工芸実修学校 → 千葉大学付属高等学校に → 東京工業大学付属高等学校に移管
「千葉大学」年表
1872(明治5)年9月23日/10月25日
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印旛県、「印旛官員共立学校」設立。
1874(明治7)年5月15日
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「印旛官員共立学校」、「千葉師範学校」に改称。師範学科・小学科、設置。
1874(明治7)年7月
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「共立病院」、千葉町、寒川村、登戸村(現在の千葉市)有志および三井組の醸金により設立。
1876(明治9)年10月
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「共立病院」、「公立千葉病院」と改称。「公立千葉病院医学教場」を付設。
1882(明治15)年7月
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「公立千葉病院」、改組され、「県立千葉医学校」および「県立千葉医学校付属病院」設置。
1886(明治19)年3月2日
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学校令により、高等中学校の制度が成立。「東京大学予備門」は、「第一高等中学校」に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置するこが定められる。「第三高等中学校(京都)」、「山口高等中学校」、「第二高等中学校(仙台)」、「第四高等中学校(金沢)」、「第五高等中学校(熊本)」、「鹿児島高等中学造士館」が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。「東京大学予備門」から設立された「第一高等中学校」だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が「帝国大学」へ進学する制度に。
1887(明治20)年9月
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高等中学校令施行に伴い、「県立千葉医学校」は官立に移管、「第一高等中学校医学部」に。「第一高等中学校」への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、「県立千葉医学校」長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定した。
1894(明治27)年6月25日公布
第一次高等学校令、1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、高等学校に改組することを目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。「帝国大学」に入学する者のための予科を設けることができるとしつつ、専門学校を教授することを原則とした。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。一方、制度としては従属的な扱いであった大学予科は、大いに発展。
1894(明治27)年7月
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高等学校令施行に伴い、「第一高等中学校医学部」は官立に移管、「第一高等学校医学部」に。
1894(明治27)年9月11日
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第一次高等学校令により、「第一高等中学校」を「第一高等学校」に改組。卒業生の多くは「東京帝国大学」進学。政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度(全寮制)。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、「帝国大学」を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置、専門教育機関として高等学校を機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた「帝国大学」を改革することはできず、日清戦争後は「帝国大学」そのものが増設。高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強めたため、構想は実現せず。
1899(明治32)年9月
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「東京工業学校工業図案科」、工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない、という考えに基づき設置。
1901(明治34)年4月1日
1906(明治39)年
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松岡壽(43-44歳)、西洋画地位向上に努めると共に、美術工芸品の向上にも尽力。特許局審査官として、産業としての工芸品の発展にも尽くす。この手腕を「東京高等工業学校」手島精一校長に見込まれ、「東京高等工業学校工業図案科」科長として迎えられる。
1909(明治42)年3月
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専門学校令に準拠、「千葉県立園芸専門学校」設立。
1914(大正3)年4月
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「千葉県立園芸専門学校」、「千葉県立高等園芸学校」に改称。
1914(大正3)年
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安田禄造(39-40歳)、オーストリア留学より帰国。「東京高等工業学校工業図案科」教授昇進。しかし、間も無く「東京美術学校図案科」に併合されることに。一人、「東京高等工業学校」に残ることに。「東京高等工業学校工業図案科」の教官と在校生全員は、「東京美術学校図案科」に移ることに。
1914(大正3)年
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「東京高等工業学校工業図案科」、「東京美術学校図案科」に併合され、廃止に。在学生、「東京美術学校」転入。しかし、「機能美」実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、また、日本美術に重きを置き、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための「産業工芸」の必要性はすぐには理解されず。
1919(大正8)年8月20日
1920(大正9)年
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「千葉県立茂原農学校附属農業教員養成科」設立
1921(大正10)年12月9日
1923(大正12)年4月
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官立医科大学官制改正、大正期の高等教育機関拡充政策により「千葉医学専門学校」は「千葉医科大学」に昇格。
1929(昭和4)年6月
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「千葉県立高等園芸学校」、文部省に移管され、「千葉高等園芸学校」に改組。唯一の官立高等園芸学校に。他の官立高農林学校と比べ、卒業後、農業学校教員に就く者が極めて多かった点に特色。
1935(昭和10)年
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「千葉県立茂原農学校附属農業教員養成科」を起源に、「千葉県立青年学校教員養成所」設立。
1940(昭和15)年
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小池敬事(50-51歳)、「千葉医科大学」学長に。
1944(昭和19)年4月
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「千葉高等園芸学校」、「千葉農業専門学校」に改称。
1944(昭和19)年
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「東京高等工藝学校」、「東京工業専門学校」に改称。
1944(昭和19)年
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「千葉県立青年学校教員養成所」、国に移管、「千葉青年師範学校」に。
1945(昭和20)年4月5日
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東京大空襲、「東京工業専門学校」芝浦校舎が焼失。千葉県松戸の「陸軍工兵学校」跡地に移転。
1949(昭和24)年5月31日公布・施行
国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、「千葉医科大学」を主な母体に「千葉大学」設立。「千葉大学医学部」が置かれる。千葉医科大学付属医院は、千葉大学医学部付属病院に。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、「千葉医科大学」を主な母体に「千葉大学」設立。「東京工業専門学校」は「千葉大学」に内包され、「千葉大学東京工業専門学校」に。
1949(昭和24)年5月31日
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「千葉師範学校」と「千葉青年師範学校」が包括され、「千葉大学学芸学部」に。
1949(昭和24)年5月31日
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「千葉農業専門学校」、「千葉大学学園芸学部」に。
1949(昭和24)年5月31日
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小池敬事(60歳)、「千葉大学」初代学長に。
1951(昭和26)年4月1日
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「千葉大学東京工業専門学校」、廃止。「千葉大学工学部」に。
1960(昭和24)年3月31日
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「千葉医科大学」、廃止。