ダイガクコトハジメ - 昌平坂学問所(昌平黌)

昌平坂学問所

(昌平黌)

 

創立年 : 1790(寛政2)年

創立者 : 林羅山(道春)

​前史  :

国学・漢学の昌平学校、洋学の開成所/開成学校、西洋医学の医学所/医学校の3校を統合 → 大学校(大学)東京大学の前身、文部省の前身

弘文館 → 昌平坂学問所(昌平黌) → 昌平学校 → 大学校(大学)/大学本校 →  東京大学の源流の1つとして位置付けられる、廃校後一部が師範学校

​「昌平坂学問所(昌平黌)」年表

1630(寛永7)年 - 1632(寛永9)年

  • 林羅山(46-47歳)、将軍・徳川家光より江戸上野忍岡に土地を与えられる。1632(寛永9)年、江戸上野忍岡の地に孔子廟・私塾「弘文館」(学問所)・文庫を建て、「先聖殿」(後に忍岡聖堂と呼ばれる)と称する。私塾より多くの門人を輩出、後世の「昌平坂学問所」の起源・基礎となる。尾張藩初代藩主・徳川義直より、私邸の孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助を受け、晩年は幕府より910石を給せられる。

1690(元禄3)年

  • 将軍・徳川綱吉の命により、孔子廟を神田湯島に移築。湯島聖堂・学寮を整備、孔子の生地「昌平郷」にちなみ、「昌平坂」と称する。

1691(元禄4)年

  • 林信篤(鳳岡)、昌平坂聖堂祭酒職に任ぜられ、大学頭(だいがくのかみ)を称する。以後、林家当主が代々世襲。

1790(寛政2)年 - 1797(寛政9)年

  • 「寛政異学の禁」により、江戸幕府の教学政策として朱子学が奨励される。林家の私塾であった「弘文館」(学問所)を江戸幕府直轄の教学機関・施設に。「昌平坂学問所(昌平黌)」創立。外部より尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。

1862(文久2)年11月14日/1月3日

  • 江戸幕府、文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した「学問所奉行」設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、「昌平坂学問所」および「洋書調所」の監督を行なった。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。「洋書調所」は「昌平坂学問所」と同格の幕府官立学校となった。

1868(慶応4)年6月29日/8月17日

  • 明治新政府に接収され、官立の「昌平学校」として再出発。​しかし、従来のような儒学・漢学中心ではなく、皇学(国学・神道)を上位に、儒学を従とする機関として位置付けられる

  • 丸山作楽ほか国学派、その地位を誇って儒学派を排斥。水本成美ら儒学派、儒教は必ずしも外来思想ではないと主張・反駁。

1868(慶応4)年9月13日/10月28日

  • 学習院」を巡る平田鐵胤・玉松操・矢野玄道らと保守勢力の対立を憂慮した松代藩士・長谷川昭道は、岩倉具視に両者間の妥協を促す意見書を提出。岩倉具視は同意。平田案に基づく国学中心の「皇学所」と、大学寮代を改組した漢学中心の「漢学所」の2校体制に移行。​

1868(慶応4)年9月16日/10月31日

  • 京都に大学校を新設する太政官布告が出される。これにより、「漢学所」は9月18日/11月2日に開講。やや遅れ、12月14日/1月26日に「皇学所」開講。

1869(明治2)年7月8日/8月15日

  • 東京奠都、東京に移った新政府により、「大学校」構想は江戸幕府の「昌平坂学問所(昌平黌)」などを基礎とし、洋学・医学を織り交ぜる案へと修正される。これにより、両学所の実質は東京へ移されることに。皇漢両学を教授する「大学校」の「本校」に、「皇学所」出身者が採用される。「昌平坂学問所(昌平黌)」系儒学者と、「皇学所」系国学者が激しく対立。

1869(明治2)年7月8日/8月15日

  • 明治新政府が官立の教育機関および教育行政官庁を構想、大学校」設立。教育機関としては、国学・漢学の「昌平学校」、洋学の「開成所/開成学校」、西洋医学の「医学所/医学校」の3校を統合。「昌平学校」を中枢機関とする案を構想した。また同時に、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた。長官・学長に相当する大学別当に、松平春獄が就任。

  • 「昌平学校」が「大学校」の中枢機関となる構想以降、儒学派・国学派の対立が一層激化。

1869(明治2)年8月2日/9月7日

  • 大学校」で挙行された学神祭において、国学派が孔子に代えて「八意思兼命」を祀ったことを発端に「学神祭論争」が起こる。

 

1869(明治2)年9月2日/10月6日

1869(明治2)年12月10日/1月11日

  • 皇学所」・「漢学所」、廃止命令に強く反発。この声に圧された京都留守官は、東京に置かれた「大学校」を補完する学校として、独断で旧「皇学所」と旧「漢学所」を統合した「大学校代」を設置。しかし、東京奠都で多くの公家が京都を去ったことも影響、生徒を十分に集めることができず。皇漢両派の対立も止まず。

1869(明治2)年12月17日/1月18日

1870(明治3)年7月12日/8月8日 - 1871(明治4)年

  • 大学」内部における洋学派と国学・漢学派の対立が激化。政府は「昌平学校/大学本校」を中枢機関とする案を早々に断念。当分休校となり、そのまま廃校となった。これにより、「昌平坂学問所(昌平黌)」は林羅山の私塾以来240年、学問所となって以来75年の歴史に幕を閉じた。

1871(明治4)年7月18日/9月2日

  • 明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。

  • 大学」休止・廃校により、「大学南校」と「大学東校」が独立。この一連の過程で、政府において洋学中心による「東京大学」創立の方針が固まる。次第に、洋学者が国学者・漢学者を圧倒するようになる。

1872(明治5)年3月10日

  • 湯島聖堂大成殿で、文部省主催による日本最初の博覧会「湯島聖堂博覧会」開催。国立博物館(後に東京国立博物館および国立科学博物館)の起源に。​

1872(明治5)年9月

  • 学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に、日本初の官立教員養成機関「師範学校」創立。湯島聖堂内に、「昌平坂学問所(昌平黌)」を一部引き継ぐ形で設立される。

  • 明治以後の一時期、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に文部省、「東京師範学校」およびその付属学校、「東京女子師範学校」およびその付属学校、国立博物館が同居していた。