ダイガクコトハジメ - 千葉医科大学
千葉医科大学
創立 : 1887(明治20)年9月
大学設立: 1923(大正12)年4月
創立者 : 長尾精一
前史 :
千葉医科大学、東京高等工藝学校、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括 → 千葉大学
共立病院 → 公立千葉病院と改称、公立千葉病院医学教場を付設 → 県立千葉医学校および県立千葉医学校付属病院設置 → 高等中学校令に伴い官立に、第一高等中学校医学部 → 第一高等学校医学部 → 千葉医学専門学校 → 千葉医科大学 → 千葉大学医学部
総称 : 旧六医大
「千葉医科大学」年表
1874(明治7)年7月
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「共立病院」、千葉町、寒川村、登戸村(現在の千葉市)有志および三井組の醸金により設立。
1876(明治9)年10月
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「共立病院」、「公立千葉病院」と改称。「公立千葉病院医学教場」を付設。
1877(明治10)年4月12日
1877(明治10)年4月12日
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「東京英語学校」と「東京開成学校予科」が統合、「東京大学予備門(後に、第一高等中学校、第一高等学校)」設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、「東京大学法・理・文三学部」入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、「東京大学医学部」は別に予科を設ける。
1880(明治13)年9月
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長尾精一(28-29歳)、「東京大学」卒業。公立千葉病院長兼「公立千葉病院医学教場」教頭に。
1882(明治15)年6月
1882(明治15)年7月
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「公立千葉病院」、改組され、「県立千葉医学校」および「県立千葉医学校付属病院」設置。
1882(明治15)年7月
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長尾精一(30-31歳)、「県立千葉医学校」校長に。
1885(明治18)年8月
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布
学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日
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学校令により、高等中学校の制度が成立。「東京大学予備門」は、「第一高等中学校」に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置するこが定められる。「第三高等中学校(京都)」、「山口高等中学校」、「第二高等中学校(仙台)」、「第四高等中学校(金沢)」、「第五高等中学校(熊本)」、「鹿児島高等中学造士館」が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。「東京大学予備門」から設立された「第一高等中学校」だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が「帝国大学」へ進学する制度に。
1887(明治20)年9月
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高等中学校令施行に伴い、「県立千葉医学校」は官立に移管、「第一高等中学校医学部」に。「第一高等中学校」への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、「県立千葉医学校」長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定した。
1887(明治20)年12月
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長尾精一(35-36歳)、「第一高等中学校医学部」、医学部長、医学主事に。
1888(明治21)年3月
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「県立千葉医学校付属病院」、「県立千葉病院」に改称。
1889(明治22)年5月
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三輪徳寛(29歳)、「第一高等中学校医学部」教諭に。外科学を担当。あわせて、付属の県立千葉病院において外科担当。
1894(明治27)年6月25日公布
第一次高等学校令、1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、高等学校に改組することを目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。「帝国大学」に入学する者のための予科を設けることができるとしつつ、専門学校を教授することを原則とした。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。一方、制度としては従属的な扱いであった大学予科は、大いに発展。
1894(明治27)年7月
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高等学校令施行に伴い、「第一高等中学校医学部」は官立に移管、「第一高等学校医学部」に。
1894(明治27)年7月
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長尾精一(42-43歳)、「第一高等学校医学部」、医学部主事に。
1894(明治27)年9月11日
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第一次高等学校令により、「第一高等中学校」を「第一高等学校」に改組。卒業生の多くは「東京帝国大学」進学。政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度(全寮制)。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、「帝国大学」を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置、専門教育機関として高等学校を機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた「帝国大学」を改革することはできず、日清戦争後は「帝国大学」そのものが増設。高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強めたため、構想は実現せず。
1897(明治30)年9月3日 - 1899(明治32)年8月24日
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三輪徳寛(37-39歳)、官費留学生が「帝国大学」教授だけでなく、「高等中学校医学部」教授にも認められることに。「高等中学校教授」の第一回官費留学生として、木村孝蔵・田代正と共にドイツ留学。留学先にて、呉秀三・佐藤達次郎・岡村達彦・高安道成らと行動を共にすることも。
1901(明治34)年4月1日
1901(明治34)年4月
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長尾精一(49-50歳)、「千葉医学専門学校」初代校長に。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1903(明治36)年
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三輪徳寛(43-44歳)、「千葉医学専門学校」第2代校長・荻生録造がドイツ留学に。一時、「千葉医学専門学校」校長・千葉医学専門学校付属病院院長代理に。
1904(明治37)年
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三輪徳寛(44-45歳)、日露戦争、「千葉医学専門学校」校長が「赤十字社支部看護婦養成所」所長を兼ねる。日露戦争戦傷者を収容した東京予備病院千駄ヶ谷分院および戸山ヶ原分院での治療を担当。派遣看護婦の管理督励。
1914(大正3)年12月18日
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三輪徳寛(55歳)、「千葉医学専門学校」第3代校長に。
1922(大正11)年3月
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「県立千葉病院」、「千葉医学専門学校付属医院」に。看護婦講習所、産婆講習所を設置。
1923(大正12)年4月
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官立医科大学官制改正、大正期の高等教育機関拡充政策により「千葉医学専門学校」は「千葉医科大学」に昇格。
1923(大正12)年4月
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三輪徳寛(63歳)、「千葉医学専門学校」が「千葉医科大学」に昇格。初代校長に。
1949(昭和24)年5月31日公布・施行
国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。
1940(昭和15)年
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小池敬事(50-51歳)、「千葉医科大学」学長に。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、「千葉医科大学」を主な母体に「千葉大学」設立。「千葉大学医学部」が置かれる。千葉医科大学付属医院は、千葉大学医学部付属病院に。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、「千葉医科大学」を主な母体に「千葉大学」設立。「東京工業専門学校」は「千葉大学」に内包され、「千葉大学東京工業専門学校」に。
1949(昭和24)年5月31日
1960(昭和24)年3月31日
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「千葉医科大学」、廃止。