ダイガクコトハジメ - 東京大学
東京大学
開成学校/大学南校創立 : 1856(安政3)年2月11日/3月17日
医学校/大学東校創立 : 1858(安政5)年5月
大学校(大学)創立 : 1869(明治2)年7月8日/8月15日
文部省創立 : 1871(明治4)年7月18日/9月2日
(旧制)東京大学創立 : 1877(明治10)年4月12日
(新制)東京大学設立 :1949(昭和24)年4月1日
開成学校/大学南校創立者 : 古賀謹一郎
前史 :
国学・漢学の昌平学校、洋学の開成所/開成学校、西洋医学の医学所/医学校の3校を統合 → 大学校(大学) → 東京大学の前身、文部省の前身
弘文館 → 昌平坂学問所(昌平黌) → 昌平学校 → 大学校(大学)/大学本校 → 東京大学の源流の1つとして位置付けられる、廃校後一部が師範学校に
天文方蛮(蕃)書和解御用 → 洋学所 → 蕃書調所 → 洋書調所 → 開成所 → 開成学校 → 大学校(大学)/大学南校 → 南校 → 第一大学区第一番中学校 → 開成学校 → 東京開成学校 → 東京開成学校本科が東京大学法学部・理学部・文学部に
お玉ヶ池種痘所 → 西洋医学所 → 医学所 → 大病院 → 医学校兼病院 → 大学校(大学)/大学東校 → 東校 → 第一大学区医学校 → 東京医学校 → 東京大学医学部
開成学校語学課程(英・独・仏)・独逸学教場・外国語学所を統合、東京外国語学校(旧外語) → 東京外国語学校英語科が東京英語学校として独立 → 東京外国語学校(旧外語)の英・仏・独3語科が東京大学予備門に合併、英・仏・独以外の語学科が東京商業学校に合併 → 東京外国語学校(旧外語)、廃校
東京開成学校予科 → 東京英語学校と統合、東京大学予備門に → 東京外国語学校英・仏・独3語学科を合併 → 第一高等中学校 → 第一高等学校 → 東京高等学校高等科と併合、東京大学教養学部に
明法寮 → 司法省法学校 → 文部省管轄に、東京法学校 → 東京大学法学部に統合、東京大学法学部仏法科に
工部省工学寮工学校 → 工部大学校 → 東京大学工芸学部と合併し帝国大学工科大学に
内務省管轄、農事修学場 → 駒場農学校 → 駒場農学校、内務省より農商務省管轄に → 駒場農学校と東京山林学校が合併、東京農林学校に → 帝国大学農科大学
内務省管轄、樹木試験場 → 樹木試験場、内務省より農商務省管轄に → 東京山林学校 → 駒場農学校と東京山林学校が合併、東京農林学校に → 帝国大学農科大学
東京農林学校別科 → 帝国大学農科大学乙科 → 東京帝国大学農科大学乙科 → 東京帝国大学農学部実科 → 東京帝国大学より独立、東京高等農林学 → 東京農林専門学校 → 東京農工大学農学部
帝国大学農科大学付設農業教員養成所 → 東京農業教育専門学校 → 東京教育大学に包括 → 筑波大学生物資源学類
東京開成学校製作学教場 → 東京職工学校 → 帝国大学付属学校に移管も、再独立 → 東京工業学校 → 東京高等工業学校 → 東京工業大学
私立「伝染病研究所」 → 内務省管轄に、国立「伝染病研究所」 → 文部省管轄に、国立「伝染病研究所」 → 東京帝国大学附置伝染病研究所 → 東京大学医科学研究所
「東京大学」前史
1790(寛政2)年 - 1797(寛政9)年
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「寛政異学の禁」により、江戸幕府の教学政策として朱子学が奨励される。林家の私塾であった「弘文館」(学問所)を江戸幕府直轄の教学機関・施設に。「昌平坂学問所(昌平黌)」創立。外部より尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。
1811(文化8)年
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江戸幕府の編暦・測量を司る天文方内に、高橋景保の提唱で、蘭書を中心に翻訳する機関「蛮(蕃)書和解御用」(蛮(蕃)書和解御用掛とも呼ばれる)を設置。大槻玄沢、宇田川榕菴、青地林宗など、優秀な蘭学者が翻訳官に任命される。
1828(文政11)年9月
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シーボルト事件。オランダ商館付医師・シーボルトの帰国直前、日本国外への持ち出しが禁じられていた日本地図が所持品の中から発見され、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか10数名が処分された。以後、「蛮(蕃)書和解御用」は山路諧孝・山路彰常の父子に引き継がれる。
1854(嘉永7/安政元)年 - 1855(安政2)
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古賀謹一郎(37-39歳)、従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱く。度々、老中阿部正弘に対し建白書を提出。「洋学所」設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求める。
1855(安政2)年9月
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古賀謹一郎(38歳)、1853(嘉永6)年の黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の「天文台蛮書和解御用掛」を拡充、「洋学所」開設。老中阿部正弘より直に、洋学所頭取を任命される。蘭書翻訳・教育機関を構想、勝麟太郎らと共に草案を作成。「蕃書調所」設立案を提出。
1856(安政3)年2月11日/3月17日 - 1857(安政元)年2月
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古賀謹一郎(39-40歳)、「洋学所」を「蕃書調所」に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。頭取に着任し、国内の著名な学者を招聘。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安(寺島宗則)、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六(大村益次郎)、木村軍太郎、市川斎宮、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元、中村敬輔(中村敬宇)、加藤弘之らを教授手伝に。幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用。
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「蕃書調所」、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は降盛、書籍は次第に充実、自然科学部門も置かれた。
1858(安政5)年
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「蕃書調所」、幕臣の子弟に限らず、藩士の子弟の入学も認めるように。
1858(安政5)年5月
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天然痘の予防及び治療を目的に、日本各地に「種痘所」が設立される。長崎の「鳴滝塾」でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学んだ伊東玄朴、大槻俊斎、戸塚静海らを中心に、蘭方医83名の出資により「お玉ヶ池種痘所」を開設。種痘の普及と西洋医学の講習を行うことを目的とする。
1858(安政5)年11月
1859(安政6)年
1859(安政6)年9月
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下谷和泉橋通りに「種痘所」を再建。
1860(万延元)年
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加藤弘之(23-24歳)、「蕃書調所」教授手伝に。ドイツ語を学び始める。
1860(万延元)年10月27日
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大槻俊斎(53-54歳)、「種痘所」が幕府に接収され、官立に。初代頭取に。「東京大学医学部」の前身とされていることより、東大医学部初代総長ともみなされる。
1861(文久元)年
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教育機関としての性格が強くなり、「西洋医学所」と改称。組織を種痘、医学教育、解剖の3科とする。
1862(文久2)年5月
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古賀謹一郎(45歳)、御留守居番に就任。同時に、「蕃書調所」頭取を解任される。原因は、不明。以後4年間失職、不遇の内に過ごす。
1862(文久2)年5月18日/6月15日
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「蕃書調所」、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、「洋書調所」と改称。
1862(文久2)年8月
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大槻俊斎(55-56歳)、「西洋医学所」初代頭取にあったが、病床につく。後任に、幕命により大阪から「適塾」の緒方洪庵が呼び出され、2代頭取就任。
1862(文久2)年8月
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緒方洪庵(51-52歳)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼「西洋医学所」2代頭取として江戸に出仕。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。
1862(文久2)年8月8日
1862(文久2)年11月14日/1月3日
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江戸幕府、文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した「学問所奉行」設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、「昌平坂学問所」および「洋書調所」の監督を行なった。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。「洋書調所」は「昌平坂学問所」と同格の幕府官立学校となった。
1862(文久2)年
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一ツ橋門外「護持院原」(現在の神田錦町)の広大な校地に移転。後に「開成所/開成学校」・「東京大学法理文三学部」に継承される。
1863(文久3)年2月
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「西洋医学所」、「医学所」と改称。
1863(文久3)年6月10日/7月25日
1863(文久3)年7月
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松本良順(30-31歳)、「医学所」3代頭取就任。「適塾」式を廃止、教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」
1863(文久3)年8月29日/10月11日
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「開成所」と改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。
1864(元治元)年
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加藤弘之(27-28歳)、幕府旗本に。「開成所」教授職並に任じられる。
1865(慶応元)年春
1866(慶応2)年5月
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松本良順(33歳)、種痘のための出張所を江戸数ヵ所に設置。
1866(慶応2)年
1867(慶応3)年12月9日/1月3日
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言
1868(慶応4)年3月14日/4月6日
『五箇条の御誓文』、政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
1868(慶応4)年6月13日/8月1日
1868(慶応4)年6月29日/8月17日
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明治新政府に接収され、官立の「昌平学校」として再出発。しかし、従来のような儒学・漢学中心ではなく、皇学(国学・神道)を上位に、儒学を従とする機関として位置付けられる。
1868(慶応4/明治元)年7月
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横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移転、「医学所」を含めて「大病院」と称す。
1868(慶応4)年9月16日/10月31日
1868(慶応4)年7月17日/9月3日
東京奠都、江戸が「東京」と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
1868(明治元)年9月12日/10月27日
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「開成所」、官立「開成学校」として再興。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年
戊辰戦争
1869(明治2)年1月
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相良知安(32歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。
1869(明治2)年2月
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「大病院」、「医学校兼病院」と改称。5局(医学校・病院・種痘館・黴毒院・薬園)を置く。
1869(明治2)年6月
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相良知安(33歳)、ドイツより教師を招くことを建議、 2名を招請することに。
1869(明治2)年
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田中不二麿(23-24歳)、大学御用掛を拝命。教育行政に携わるように。
1869(明治2)年7月8日/8月15日
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明治新政府が官立の教育機関および教育行政官庁を構想、「大学校」設立。教育機関としては、国学・漢学の「昌平学校」、洋学の「開成所/開成学校」、西洋医学の「医学所/医学校」の3校を統合。「昌平学校」を中枢機関とする案を構想した。また同時に、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた。長官・学長に相当する大学別当に、松平春獄が就任。
1869(明治2)年7月8日/8月15日
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東京奠都、東京に移った新政府により、「大学校」構想は江戸幕府の「昌平坂学問所(昌平黌)」などを基礎とし、洋学・医学を織り交ぜる案へと修正される。これにより、京都「漢学所」・「皇学所」の実質は東京へ移されることに。皇漢両学を教授する「大学校」の「本校」に、「皇学所」出身者が採用される。「昌平坂学問所(昌平黌)」系儒学者と、「皇学所」系国学者が激しく対立。
1869(明治2)年8月2日/9月7日
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「大学校」で挙行された学神祭において、国学派が孔子に代えて「八意思兼命」を祀ったことを発端に「学神祭論争」が起こる。
1869(明治2)年12月10日/1月11日
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「皇学所」・「漢学所」、廃止命令に強く反発。この声に圧された京都留守官は、東京に置かれた「大学校」を補完する学校として、独断で旧「皇学所」と旧「漢学所」を統合した「大学校代」を設置。しかし、東京奠都で多くの公家が京都を去ったことも影響、生徒を十分に集めることができず。皇漢両派の対立も止まず。
1869(明治2)年12月17日/1月18日
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「大学校」を「大学」と改称。「昌平学校」を「大学本校」に、大学本校の南に所在していた「開成学校」は「大学南校(だいがくなんこう)」、東に所在していた「医学校」は「大学東校(だいがくとうこう)」と改称された。
1870(明治3)年5月
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明治新政府、「大学東校」の上野移転を決定。
1870(明治3)年7月
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普仏戦争の影響により、ドイツ人教師ミュルレルとホフマンの来任が遅れる。「大阪医学校」教師の任期を終えたオランダ医ボードウィンに講義を委嘱。「大学東校」の上野移転計画はボードウィンの反対により中止。
1870(明治3)年7月12日/8月8日 - 1871(明治4)年
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「大学」内部における洋学派と国学・漢学派の対立が激化。政府は「昌平学校/大学本校」を中枢機関とする案を早々に断念。当分休校となり、そのまま廃校となった。これにより、「昌平坂学問所(昌平黌)」は林羅山の私塾以来240年、学問所となって以来75年の歴史に幕を閉じた。
1870(明治3)年8月
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目賀田種太郎(16-17歳)、「大学南校」第1回国費留学生に。アメリカ留学を願い出る。
1870(明治3)年11月
1870(明治3)年
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手島精一(19-20歳)、藩より学費を借り、渡米。建築学・物理学を学ぶつもりであったが、廃藩置県で送金がなくなる。岩倉遣外使節団の訪米時の通訳を務め、さらにイギリス随行。
1870(明治3)年 - 1874(明治7)年末
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手島精一(19-24歳)、渡米・渡英中に得た産業技術一般に関する豊富な知識と広い視野で、工業知識普及と工業教育振興に関する論説を新聞紙上にしばしば発表。このことが、後に唯一の中等工業教育機関であった「製作学教場」の最高責任者の職に就くきっかけに。
1871(明治4)年5月11日/6月28日
1871(明治4)年7月14日/8月29日
廃藩置県、藩を廃止、地方統治を中央管下の府と県に一元化
1871(明治4)年7月18日/9月2日
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明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。
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「開成学校/大学南校」は「東京大学法学部・理学部・文学部」の、「医学校/大学東校」は「東京大学医学部」の直接の前身となった。「昌平学校/大学本校」は「東京大学」の源流の1つとして位置付けられるも、以後、間接的・限定的な影響力しか持ち得なかった。
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江藤新平(37歳)、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である「学制」の基礎を固める。
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富国強兵・日本の近代化を目的に、優秀な人物として推薦を受けた貢進生を全国から集める。御雇い外国人から英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。貢進生の中から更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させた。
1871(明治4)年7月21日/9月5日
1871(明治4)年7月21日/9月5日
1871(明治4)年8月
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ドイツ人教師ミュルレルとホフマンが来任。外科学、内科学を講義。ミュルレルに日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月14日/9月29日
1871(明治4)年8月14日/9月29日
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「工学寮」は当初、海外留学制度、国内技能研修制度(修技校)、技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者を育成する部局であったが、最終的に「工学寮工学校」のみの管轄となる。
1871(明治4)年9月25日/11月7日
1871(明治4)年9月
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江藤新平、フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
1871(明治4)年10月
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田中不二麿(26歳)、文部大丞に。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
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田中不二麿(26-28歳)、岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。
1871(明治4)年11月
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種痘館を廃止。「東校」に種痘局を開設。
1872(明治5)年4月
1872(明治5)年4月
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伴正順(28-29歳)、文部省七等出仕。「南校」副校長に。
1872(明治5)年
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濱尾新(22-23歳)、文部省入省。「南校」の中監事に。後に「東京職工学校」設立を共にする手島精一が部下に。
1872(明治5)年8月2日/9月4日公布
学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
1872(明治5)年8月2日/9月4日
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「南校」。「学制」公布により、学制における「中学校」へと改変。「第一大学区第一番中学校」と改称。外国語による「普通科」の課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
1872(明治5)年8月
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「学制」公布により、「第一大学区医学校」と改称。
1872(明治5)年9月
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九鬼隆一(19-20歳)、「第一大学区医学校」事務主任に。
1872(明治5)年9月
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学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に、日本初の官立教員養成機関「師範学校」創立。湯島聖堂内に、「昌平坂学問所(昌平黌)」を一部引き継ぐ形で設立される。
1872(明治5)年10月8日
1872(明治5)年 - 1873(明治6)年
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「明法寮」、ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを教員に迎え、フランス語による本格的な法学教育を開始。
1872(明治5)年
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鶴田皓(35-36歳)、江藤新平の命により、司法省調査団として井上毅らと共に渡仏。ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの講義を受ける。
1873(明治6)年4月10日
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「第一大学区第一番中学校」、学制における「専門学校」へと改変。再び、「(第一大学区)開成学校」へ改称。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
1873(明治6)年5月
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伴正順(29-30歳)、文部省六等出。「開成学校」校長に。
1873(明治6)年6月
1873(明治6)年6月
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「第一大学区医学校」、製薬学教場を置く。
1873(明治6)年7月
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森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成学校」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年8月
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「開成学校」、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。
1873(明治6)年8月
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6大学区での官立師範学校設立。東京の「師範学校」は、「東京師範学校」と改称。師範学校の名が、教員養成機関の総称に。師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障された。優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。師範学校→「高等師範学校」→「文理科大学」というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→「帝国大学」というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。
1873(明治6)年11月10日
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大久保利通(43歳)、「岩倉遣欧使節団」外遊において、日本の政治体制のあるべき姿として、先進国のイギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。ビスマルクの下、官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構として内務省を設立。初代内務卿(参議兼任)として実権を握る。学制や地租改正、徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、殖産興業政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、「有司専制」として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。
1873(明治6)年11月
1873(明治6)年11月4日
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官立外国語教育機関である「開成学校語学課程(英・独・仏の3科)」・「独逸学教場」・「外国語学所」を統合、「東京外国語学校」設立。翌1874年までに全国で8校の官立外国語学校が設立されたが、官立最初の語学学校となる。「語学校」とも呼ばれる。
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「東京外国語学校」、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置。後に英語科が分離、朝鮮語科が増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
1873(明治6)年11月
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伴正順(30-31歳)、 「東京外国語学校」初代校長に。
1873(明治6)年11月
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「工学寮工学校」、実践的技術者養成を目的に、スクール(小学校)とカレッジ(大学校)からなるはずであったが、イギリスから小学校教師団任用がうまくいかず。予備教育を含んだ6年制の大学校として、開校。
1873(明治6)年末
1873(明治6)年
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九鬼隆一(20-21歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省のこの方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。留学生の中には井上毅、井上和郎などもおり、強い反発を受けたが、中江篤介の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができた。
1874(明治7)年3月
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高島嘉右衛門(41-42歳)、「藍謝堂(高島学校)」焼失。学生は、「慶応義塾」、「開成学校」へ転籍。
1874(明治7)年5月
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「開成学校」、「東京開成学校」に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の「本科」に再編される。加えて、修業年限3年の「予科」が設けられる。
1874(明治7)年5月
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「第一大学区医学校」を「東京医学校」と改称。
1874(明治7)年10月3日
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長與專齋(35-36歳)、文部省医務局長に就任。「東京医学校」校長を兼務。
1874(明治7)年
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三宅秀(27-28歳)、「東京医学校」校長心得に。
1874(明治7)年
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正木退蔵(27-28歳)、帰国。「開成学校」教授補に。教授として招聘されたアトキンソンを補佐、化学を講義。
1874(明治7)年
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東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、「東京開成学校」内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする「製作学教場」設立。後の「東京職工学校」の前身となる。
1874(明治7)年
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濱尾新(24-25歳)、帰国。「東京開成学校」校長心得に。
1874(明治7)年
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内務省、農業・牧畜について西洋式技術の導入を目的に、内務省勧業寮内藤新宿出張所に、「農事修学場」設置。あわせて、三田育種場を開設。
1875(明治8)年5月
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司法省所管の法学校、「司法省法学校」設立。麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩邸の建物を校舎に。
1875(明治8)年11月
1875(明治8)年末
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手島精一(24-25歳)、「東京開成学校」監事に。
1875(明治8)年
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本科生・予科生から11名選抜、文部省派遣による第一回海外留学生となる。
1875(明治8)年
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目賀田種太郎(21-22歳)、文部省の留学生監督となり、「東京開成学校」の生徒9人(鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴二郎、南部球吾)を引き連れて再渡米。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身も法律を学ぶ。
1875(明治8)年
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古市公威(20-21歳)、諸芸学修行のため、文部省最初の留学生として、欧米諸国へ派遣。
1875(明治8)年
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岡倉天心(11-12歳)、「東京開成学校」入学。政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことより、講師アーネスト・フェノロサの助手に。フェノロサの美術品収集を手伝う。
1876(昭和9)年
代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立、前後より各地で試験準備のための私塾的な法律学校が開校。
1876(明治9)年4月
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手島精一(26歳)、文部大輔・田中不二麿に随行、独立100年記念の米国フィラデルフィア万国博覧会に出席。ロシア陳列館における出品物と出会う。日本の工業教育方法を模索していた中、大きな衝撃を受け、その後の実習重視の工業教育論を方向づけることに。
1876(明治9)年6月
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正木退蔵(29歳)、「東京開成学校」のイギリス留学生監督として、穂積陳重、岡村輝彦、向坂兌、桜井錠二、杉浦重剛、関谷清景、増田礼作、谷口直貞、山口半六、沖野忠雄の10名を引率、アメリカ経由で再びロンドンに渡る。文部省に留学生の就学状況を報告。
1876(昭和9)年7月
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「司法省法学校」、第一期生20名、卒業。この時点では、法律学士の称号授与の権能を有していなかったため、称号授与は行われず。第一期生はギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる旧民法など法典編纂に協力、民法典論争において断行派の中核に。
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「司法省法学校」、第一期生卒業を受け、第二期生入学。第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)、定員100名に増員。予科はフランス語を中心とする普通教育、本科はフランス語による法学教育が行われる。第一期・第二期卒業生の多くが、フランス法系私立法律学校の創立者や校長、講師となる。
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「司法省法学校」、フランス人御雇い外国人ジョルジュ・アッペールが法学教育を担当。また、裁判官の速成教育のため修業年限2年の「出仕生徒」の制度を新設。
1876(明治9)年9月3日
1876(明治9)年11月
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「東京医学校」、本郷に校舎病院の建築が完成、 移転。
1876(明治9)年
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池田謙斎(34-35歳)、帰国。陸軍軍医監、三等侍医、「東京医学校」校長に。
1876(明治9)年
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大久保利通(45-46歳)、ヨーロッパ全権公使に依頼、「農事修学場」外国人教師の人選に取り組む。農学教師ジョン・デイ・カンスタンス、農芸化学教師エドワルド・キンチ、試業科教師ジェームス・ベクビー、英語学教師ウイリアム・ダグラス・コックス、獣医学教師ジョン・アダム・マックブライトの5名が選ばれる。農業試業科以外の講義は英語で行われ、訳官が通訳して生徒に伝えた。
1877(明治10)年1月
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「工学寮」廃止。ボアンヴィル設計による当時世界で最も優れた工業教育施設と考えられた、本館が完成。「工学寮工学校」は、「工部大学校」と改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。
1877(明治10)年2月
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。
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校地は「東京大学法・理・文三学部」が錦町、「東京大学医学部」が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地とで離れていた。職制や事務章程も別々に定められ、それぞれに綜理が置かれる。
1877(明治10)年
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加藤弘之(40歳)、「東京大学法・理・文三学部」綜理に。
1877(明治10)年
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濱尾新(27-28歳)、「東京大学法・文学部」綜理補に。同郷の「東京大学法・理・文三学部」綜理・加藤弘之を補佐。
1877(明治10)年
1877(明治10)年4月13日
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池田謙斎(35歳)、「東京大学医学部」綜理に。
1877(明治10)年4月13日
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長與專齋(38歳)、「東京大学医学部」綜理心得に。
1877(明治10)年4月12日
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外山正一(27-28歳)、新たに発足した「東京大学」にて、日本人初の教授に。講義では徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始、これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄される。
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外山正一、「ミシガン大学」で進化論の公開講義を受けた縁より、エドワード・S・モースを「東京大学」に招聘。
1877(明治10)年
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菊池大麓(21-22歳)、帰国後、「東京大学理学部」教授に。近代数学を初めて日本にもたらす。
1877(明治10)年
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「東京大学理学部」に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、「製作学教場」よりも高等の学術を教授するように。存続は不必要とみられ、「製作学教場」を閉鎖。しかし、文部省は再び低度工業教育の必要を認め、「製作学教場」の後身とも見なされる「東京職工学校」設立へ動く。
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校予科」、同じく官立の「東京英語学校」と統合、「東京大学予備門(後に、第一高等中学校、第一高等学校)」設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、「東京大学法・理・文三学部」入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、「東京大学医学部」は別に予科を設ける。
1877(明治10)年
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田中不二麿(31-32歳)、文部省にて学制改正のための委員設置、着手。
1877(明治10)年
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内務省「樹木試験場」設置。
「東京大学」年表
1878(明治11)年1月24日
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「農事修学場」、駒場野に校舎を新築、移転。「駒場農学校」に改称。アメリカ農業を教育の柱にした「札幌農学校」に対し、専らドイツ農法に範を求める。欧米の農作物を試植する「泰西農場」、在来農法の改良を期した「本邦農場」などの農場のほか、園芸・植物園、家畜病院、気象台など備えた農業の総合教育・研究機関となる。当初の敷地面積、約6万坪。内務卿・大久保利通は開会式で、「本邦初の農学校の建築にあたり、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ。」と述べる。
1878(明治11)年夏
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正木退蔵(31歳)、渡英中、お雇い外国人の周旋も任務に。エディンバラ大学フリーミング・ジェンキン宅で物理学者ジェームズ・アルフレッド・ユーイングを紹介され、「東京大学」に招聘。
1878(明治11)年2月
1878(明治11)年12月
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文部省、「東京大学」に学位(学士号)の授与権を与える。
1879(明治12)年3月5日
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石黒忠悳 (33歳)、「東京大学医学部」綜理心得に。
1879(明治12)年4月
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授与する学士号を法学士・理学士・文学士・医学士・製薬士とする。
1879(明治12)年夏
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田尻稲次郎(25-26歳)、「東京大学」で理財学(経済学)を講じる。後に大蔵省で部下となる阪谷芳郎、添田寿一などを教える。
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法律学を本格的に教える教育機関は、「東京大学法学部」、「司法省法学校」など極少数であった。「東京大学法学部」が英語、「司法省法学校」が仏語で教授していたのに対し、「専修学校法律科」は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学に。多くの学生を集める。
1879(明治12)年
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田中不二麿(33-34歳)、教育令を建白。学制にある画一的あるいは民生圧迫的な側面を退け、アメリカ式の地方主体による自由主義教育を基調としたものに。6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど、親や町村の教育負担を著しく軽減した。
1879(明治12)年9月29日公布
教育令、学制に代わり公布。欧米の教育制度を模範に定められた学制は、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学校運営に要する地方の経済的な負担も大きく、これら事情に考慮する改正が成される。
1880(明治13)年
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定、「代言人規則」改正により資格試験が厳格化、本格的な法律学校が設立されるように。
1880(明治13)年
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大学院に相当する、「学士研究科」を初めて設置。
1880(明治13)年
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「東京大学法学部」と「東京大学医学部」、日本語授業を通じて専門家(医師・薬剤師・法曹)の簡易速成を目指す「別課」「教場」設置。
1880(明治13)年6月4日
1880(明治13)年9月14日
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相馬永胤(29歳)、「慶應義塾夜間法律科」を独立させる形で、「三叉学舎法律経済科」、「東京攻法館法律科」の3社を統合、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格と共に「専修学校」創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。「明治法律学校」、「東京専門学校」、「東京法学校」、「英吉利法律学校」と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、「簿記講習所」を仮校舎として利用。
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法律学を本格的に教える教育機関は、「東京大学法学部」、「司法省法学校」など極少数であった。「東京大学法学部」が英語、「司法省法学校」が仏語で教授していたのに対し、「専修学校法律科」は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学に。多くの学生を集める。
1880(明治13)年
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松井直吉(22-23歳)、帰国。「東京大学理学部」講師に。翌1881(明治14)年、教授に。
1881(明治14)年
明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓、矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。
1881(明治14)年1月11日-3月1日
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外山正一(32歳)、「東京大学法・理・文三学部」綜理に。事務取扱。
1881(明治14)年5月26日
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手島精一(30-31歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続け、また文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵。
1881(明治14)年
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「東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。
1881(明治14)年7月6日
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加藤弘之(44歳)、機構改革により新設された「東京大学」初代総理に就任。
1881(明治14)年7月14日
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学内運営の常設審議機関として「諮詢会」設立。総理の諮問機関としての「総会」および各学部長の諮問機関である「部会」からなり、教授・助教授・講師・予備門教諭を会員とし学科課程・学位・試験規則・学制関係規則など広範な事項を審議。全学評議会・各学部教授会の先駆。
1881(明治14)年9月 - 1884(明治17)年
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渋沢栄一(41-44歳)、「官尊民卑」の世俗を憂い、また「東京大学」学生の実業軽視の風を嘆じ、「東京大学」総理・加藤弘之に訴えると、これを是非、実際に学生に講じて欲しいと依頼される。「東京大学文学部」講師に、日本財政論を教える。
1881(明治14)年
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古市公威(26-27歳)、「東京大学」講師を兼任。以後、技術官僚と大学教官を兼務。
1881(明治14)年
1882(明治15)年2月
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服部一三(30歳)、「東京大学」幹事に。
1882(明治15)年2月
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小野梓(29歳)、「東京大学」学生を中心に鷗渡会設立。
1882(明治15)年3月
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大隈重信(43-44歳)、10年後の国会開設に備え、小野梓と共に立憲改進党を結成。尾崎行雄、犬養毅、矢野龍渓、前島密らが馳せ参じる。
1882(明治15)年3月
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小野梓(29-30歳)、大隈重信の幕下として、「東京大学」学生を中心とする鷗渡会を率い、立憲改進党結成に参加。
1882(明治15)年6月
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「東京大学医学部予科」を「東京大学予備門」に合併。「東京大学予備門」は、「東京大学」各学部に入学する全生徒に対する基礎教育・語学教育機関に。
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官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。
1882(明治15)年
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「樹木試験場」、「東京山林学校」に改称。
1884(明治17)年
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「東京大学」、副学長を置く。
1884(明治17)年7月
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「司法省法学校」、二期生、卒業。入学生104名中、卒業生37名。法律学士の称号を授与(「東京大学法学部」卒業生の称号は法学士)。第一期生20名およびフランス留学5名にも法律学士の称号が与えられる。
1884(明治17)年12月
1884(明治17)年
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「駒場農学校」、敷地面積は次第に拡張され、約16万5千坪に達する。
1885(明治18)年
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「東京大学理学部」から分離、「東京大学工芸学部」新設。
1885(明治18)年
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「東京大学法学部」、成立に至るまでの期間、フランス法学習者で成績優秀者は「司法省法学校」へ転学したり、フランス留学するなど流出。一部の学科を除き教授言語を英語に統一したため、イギリス法学系の色が強くなる。このことが、「民法典論争」を引き起こすことに。
1885(明治18)年8月
1885年(明治18)年12月
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「東京大学法学部」、政治学科・理財学科を文学部から移管、「東京大学法政学部」と改称。
1885(明治18)年12月22日 - 1888(明治21)年4月30日
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伊藤博文(44-46歳)、第1次伊藤内閣、憲法発布前の下準備の機関創設に奔走。1886(明治19)年2月、各省官制を制定。同3月、「帝国大学」創設。1887(明治20)年3月、「帝国大学法科大学」の研究団体「国家学会」創設、支援。
1885年(明治18)年12月22日
1885(明治18)年
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北里柴三郎(31-32歳)、「東京医学校」の同期生、「東京大学」教授兼衛生局試験所所長・緒方正規の計らいにより、ドイツ「ベルリン大学」へ留学。コッホに師事し業績を上げる。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布
学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日
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学校令により、高等中学校の制度が成立。「東京大学予備門」は、「第一高等中学校」に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置するこが定められる。「第三高等中学校(京都)」、「山口高等中学校」、「第二高等中学校(仙台)」、「第四高等中学校(金沢)」、「第五高等中学校(熊本)」、「鹿児島高等中学造士館」が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。「東京大学予備門」から設立された「第一高等中学校」だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が「帝国大学」へ進学する制度に。
1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行
帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。
1886(明治19)年3月
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渡辺洪基(38歳)、「帝国大学」初代総長に。
1886(明治19)年3月
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「東京大学法政学部」、「帝国大学法科大学」に。法律学科、政治学科を設置。初代学長に、渡辺洪基。
1886(明治19)年
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和田垣謙三(37-38歳)、「帝国大学法科大学」教授に。金井延と共にもに学部を主導、シュタインやワグナーの社会政策学派財政学を導入。自由主義経済学からの転換を促す。
1886(明治19)年3月
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「東京大学文学部」、「帝国大学文科大学」に。第一科哲学科、第二科和文学科、第三科漢文学科、第四科博言学科を設置。初代学長に、外山正一。
1886(明治19)年
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外山正一(37歳)、「帝国大学文科大学」初代学長に。
1886(明治19)年
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「東京大学理学部」、「帝国大学理科大学」に。数学科、星学科、物理学科、化学科、動物学科、植物学科、地質学科を設置。初代学長に、菊池大麓。
1886(明治19)年
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菊池大麓(30-31歳)、「帝国大学理科大学」初代学長に。
1886(明治19)年3月
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「東京大学医学部」、「帝国大学医科大学」に。初代学長に、三宅秀。
1886(明治19)年3月
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三宅秀(37歳)、「帝国大学医科大学」初代学長に。
1886年(明治19)年
1886(明治19)年5月1日
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古市公威(31歳)、「帝国大学工科大学」初代学長に。
1886(明治19)年
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松井直吉(28-29歳)、「帝国大学工科大学」教授に。
1886(明治19)年
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辰野金吾(31-32歳)、「帝国大学工科大学」教授に。
1886(明治19)年4月29日
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手島精一(35-36歳)、閉校の危機に直面していた「東京職工学校」の維持を図るため、「帝国大学」附属学校への移管を取りまとめる。
1886(明治19)年
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「東京職工学校」、学校維持を図るため、「帝国大学」附属学校に移管。
1886(明治19)年
「五大法律学校」、私立法律学校特別監督条規、東京府下に所在、特に教育水準が高く特別許認可を受けた「英吉利法律学校」・「専修学校」・「東京専門学校」・「東京法学校」・「明治法律学校」の5校について、「帝国大学」総長の監督下に。帝国大学特別監督学校となる。
1886(明治19)年
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財政難を理由に、「駒場農学校」と「東京山林学校」が合併、「東京農林学校」に。本科と別科を設置。
1887(明治20)年10月4日
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「東京職工学校」、最初の卒業式を挙行した後、再び独立学校として「帝国大学」より分離。
1888(明治21)年11月28日
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渡辺洪基(40歳)、「帝国大学工科大学」学長事務取扱に。
1888(明治21)年
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田尻稲次郎(37-38歳)、日本最初の法学博士に。
1888(明治21)年
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池田謙斎(46-47歳)、日本で初となる医学博士号を受ける。
1888(明治21)年
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三宅秀(39-40歳)、日本で初となる医学博士号を受ける。
1888(明治21)年
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辰野金吾(30-31歳)、「帝国大学工科大学本館」設計。
1889(明治22)年
帝国大学令、「帝国大学」について、大学院と法科・医科・工科・文科・理科に農科を加えた6科となる。
1890(明治23)年5月
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加藤弘之(53歳)、「帝国大学」第2代総長に。
1890(明治23)年10月30日
『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』、近代日本の教育の基本方針として発布。
1890(明治23)年
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濱尾新(40-41歳)、文部省専門学務局長に。農商務省主管「東京農林学校」の「帝国大学」合併を推進。
1890(明治23)年
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「東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。「帝国大学農科」再編にあたり、「帝国大学」側は一時この合併に猛反発、「帝国大学」評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。大学評議会への諮問がなかったこと、「東京農林学校」の学科水準が「帝国大学」の分科大学の程度にないという判断がなされたこと、「東京農林学校予科」の教育水準などが理由に。初代学長に、松井直吉。
1890(明治23)年
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松井直吉(32-33歳)、「帝国大学農科大学」設立、初代学長に。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする「東京大学」教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈し、母校「東京大学医学部」と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
1892(明治25)年
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福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、福澤諭吉、森村市左衛門、長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立「伝染病研究所」設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
1893(明治26)年
1893(明治26)年12月
「九大法律学校」、司法省が最初に「判事検事登用試験」の受験資格を与えた司法省指定学校より、関西の「関西法律学校」を除いて「帝国大学」を加えたものに由来。「東京帝国大学」・「東京法学校」・「専修学校」・「明治法律学校」・「東京専門学校」・「東京法学院」・「獨逸学協会学校専修科」・「日本法律学校」・「慶應義塾大学部」の9つを指す。
1894(明治27)年6月25日公布
第一次高等学校令、1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、高等学校に改組することを目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。「帝国大学」に入学する者のための予科を設けることができるとしつつ、専門学校を教授することを原則とした。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。一方、制度としては従属的な扱いであった大学予科は、大いに発展。
1894(明治27)年9月11日
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第一次高等学校令により、「第一高等中学校」を「第一高等学校」に改組。卒業生の多くは「東京帝国大学」進学。政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度(全寮制)。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、「帝国大学」を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置、専門教育機関として高等学校を機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた「帝国大学」を改革することはできず、日清戦争後は「帝国大学」そのものが増設。高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強めたため、構想は実現せず。
1896(明治29)年
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松崎蔵之助(29-30歳)、独仏留学。帰国後、「帝国大学農科大学」教授に。
1897(明治30)年
帝国大学令、「京都帝国大学」設置以降、「東京帝国大学」以外の帝国大学も適用対象に。
1897(明治30)年
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学区制廃止。「第一高等学校」は全国から受験可能に。
1897(明治30)年6月
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濱尾新(48歳)、「京都帝国大学」創立に伴い、「帝国大学」を「東京帝国大学」に改称。
1897(明治30)年11月
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外山正一(41歳)、「東京帝国大学」総長に。
1898(明治31)年
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辰野金吾(43-44歳)、「東京帝国大学工科大学」学長に。
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1899(明治32)年3月
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北里柴三郎(46歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念の下、「伝染病研究所」を国に寄付、内務省管轄の国立「伝染病研究所」となる。所長に。
1899(明治32)年9月
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「高等商業学校専攻部」、「帝国大学」と同じく年限2年に。卒業生に商業学士(後の商学士)の称号を授与。
1902(明治35)年
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松崎蔵之助(35-36歳)、「東京帝国大学法科大学」教授に。財政学を担当。「東京高等商業学校」校長就任。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1903(明治36)年6月 - 1906(明治39)年1月
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日露戦争開戦直前、「東京帝国大学」教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、「学習院」教授中村進午の7人が、内閣総理大臣桂太郎、外務大臣小村壽太郎に意見書提出(七博士意見書)。桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、ロシアの満州からの完全撤退を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫った。主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかった。日露戦争末期、戸水寛人は賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。文部大臣・久保田譲は文官分限令を適用、休職処分とする。ところが、戸水寛人は金井延・寺尾亨と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出。文部大臣・久保田譲は、東京帝国大学総長・山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。「東京帝国大学」・「京都帝国大学」の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言。このため、1906(明治39)年1月、戸水寛人の復帰が認めらた(戸水事件)。
1903(明治36)年
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三宅秀(54-55歳)、「東京帝国大学」最初の名誉教授に。
1905(明治38)年12月2日
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松井直吉(48歳)、「東京帝国大学」総長を兼任。就任13日で、辞任。「帝国大学農科大学」学長は辞職せず。
1905(明治38)年12月
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濱尾新(56歳)、「東京帝国大学」総長に再任。「戸水事件」対処などにあたる。
1908(明治41)年9月 - 1909(明治42)年5月
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申酉事件、大学への昇格を目指す「東京高等商業学校」に対し、第2次桂内閣および文部省は「東京帝国大学法科大学」に経済・商業2科を新設。さらに、「東京高等商業学校専攻部」を廃止、「東京帝国大学法科大学」に事実上吸収する方針を決定。大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる「東京高等商業学校」の大学昇格運動は挫折、運動を進めてきた関一、佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。
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「東京高等商業学校」側は、単独での大学昇格を第一の目標とした。次善の策として、「東京帝国大学」内に「東京高等商業学校」を母体とし、商科大学を新設することも止む無しとしていた。しかし、文部省はいずれの案も認めず、「東京帝国大学法科大学」教授会側も文部省案を受け、商科を「東京高等商業学校」とは別に、独自に設置することを決議。
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文部省令により「東京高等商業学校専攻部」廃止。この決定に対し、「東京高等商業学校」側は激しく反発。学生も総退学の意思を表明、紛争・学生騒動となる。事態に対し、財界の大立者、「東京高等商業学校」の商議員でもあった渋沢栄一が調停に乗り出す。文部省も折れ、「東京高等商業学校専攻部」は存続が決定した。「東京高等商業学校」側の勝利により、その後の大学昇格への道が開かれることになる。
1914(大正3)年
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關一(39-40歳)、「東京帝国大学」による「東京高等商業学校」吸収合併計画が発覚し、大学教授の世界に嫌気がさす。「京都帝国大学」戸田海市教授及び「東京高等商業学校」小山健校長の紹介・斡旋で、池上四郎市長の補佐として大阪市助役に招かれる。助役就任に関し、「栄誉ある東京高等商業学校教授を辞し、格下の大阪市助役に就任するのはどういうことか」と騒がれる。文部省や渋沢栄一からも留まるよう説得を受けるも、意思は変わらず。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、政府は一切の相談もなく、国立「伝染病研究所」を文部省に移管、「東京帝国大学」の下部組織にすると発表。「東京帝国大学医科大学」学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
1914(大正3)年
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北里柴三郎(60-61歳)、私財を投じ、新たに私立「北里研究所」設立。初代所長に。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
1916(大正5)年
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行
大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認めた。
1919(大正8)年
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金井延(53-54歳)、「東京帝国大学法科大学経済学部」新設、初代学部長に。
1919(大正8)年
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松崎蔵之助(52-53歳)、「東京帝国大学法科大学経済学部」教授就任。
1921(大正10)年11月
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第二次高等学校令に基づき、官立「東京高等学校」創立。日本初の官立七年制高校で、尋常科、および文科・理科からなる高等科を設置。独特の教育制度の下、数々の傑出した人材を生み出す。「東京帝国大学」への進学率は8割に達した。初代校長に、湯原元一。
1921(大正10)年11月
1935(昭和10)年4月
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「東京帝国大学農学部実科」、「東京帝国大学」より独立、「東京高等農林学校」創立。背景に、専門学校令により高等教育機関が随時拡張、全国で農林系専門学校が相次いで設立され、実科の廃止論があがっていた。「東京帝国大学農学部」が旧制「第一高等学校」との敷地交換により駒場から本郷に移転する際、付属実科を本郷に移転せず分離独立という手段で存続。
1937(昭和12)年
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「東京帝国大学付属農業教員養成所」、「東京帝国大学農学部」の本郷移転時に駒場に残り、「東京農業教育専門学校」に。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。
1947(昭和22)年
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終戦後、「東京帝国大学」より「東京大学」に改称。
1949(昭和24)年5月31日公布・施行
国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、新制「東京大学」設立。「第一高等学校」と「東京高等学校高等科」を併合、「東京大学教養学部」設置。「第一高等学校」は、「東京大学第一高等学校」に。翌1950(昭和25)年3月24に廃止。「東京大学教養学部」に内包される。