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ダイガクコトハジメ - 東京大学

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学校略歴

  • 1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校大学東校が独立、新たに文部省設立

  • 1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校文部省管轄に、南校に改称、文部省主導による貢進生廃止など制度改革のため一時閉鎖、翌10月に再開、外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となるも、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた

開成所・大学南校

  • 1871(明治4)年8月、大学東校、ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる、日本の医学教育制度構築の全権を託す

  • 1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学東校文部省管轄に、東校に改称、一旦閉鎖、学則改正後に再開、入学試験を通過した学力優秀者だけの再入学を許可

医学所・大学東校

​→ 東京大学医学部

  • 1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日)、学制公布、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令、全国を学区に分けそれぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画、身分・性別に区別ない国民皆学を目指す、「大学」を高尚な諸学を授ける専門科の学校とし、卒業者に学士の称号を与えるとする

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組、第一大学区第一番中学校に、外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に

  • 1873(明治6)年4月、学制二編追加、「専門学校」を外国教師によって教授する高尚な学校とし、「大学」と同じく卒業者に学士の称号を与えるとする、外国語教育機関として「外国語学校」を定める

  • 1873(明治6)年4月10日、学制二編追加により、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組、第一大学区開成学校に、教授言語が原則として英語に統一される

  • 1873(明治6)年8月、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設、法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される、法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされる、当2学科について学生の卒業に伴い順次廃止

  • 1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立、開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合、東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に、翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される

​→ 東京外国語大学

  • 1873(明治6)年末、開成学校が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、東京外国語学校英語科東京英語学校として独立

  • 1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称、法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編、修業年限3年の予科設置

  • 1874(明治7)年、工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする製作学教場設立

  • 1877(明治10)年2月19日、東京英語学校大阪英語学校以外の官立英語学校、廃止

  • 1877(明治10)年4月12日、東京大学創立、東京開成学校本科東京医学校が統合、法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生、しかし実態は1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった

  • 1877(明治10)年、東京英語学校東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に、第一高等中学校・第一高等学校)設立、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に

​→ 大学予備門

  • 1877(明治10)年5月26日、東京大学理学部に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、製作学教場よりも高等の学術を教授するように、存続不要とみられ製作学教場閉鎖

  • 1880(明治13)年、代言人資格試験制度の厳格化、司法省法学校東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように

  • 1881(明治14)年4月12日、東京大学機構改革、東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学誕生、単一の総理を新設、東京大学初代総理に加藤弘之

  • 1881(明治14)年5月26日手島精一製作学教場の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張、官立の東京職工学校創立、東京大学理学部を卒業した日本人教員が教鞭を執る

​→ 東京工業大学

  • 1882(明治15)年6月、東京大学医学部予科東京大学予備門に合併東京大学東京大学医学部各学部に入学する全生徒に対する基礎教育・語学教育機関に

  • 1885(明治18)年8月、東京大学予備門東京大学付属より分離、文部省の管轄に、東京大学の予備教育機関であるばかりでなく他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関に拡張

  • 1885(明治18)年9月、東京外国語学校、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併、英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される、東京外国語学校(旧外語)は廃止に

  • 1885(明治18)年12月22日、森有礼、第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に、『学政要領』立案、国家至上主義の教育観による「国体教育主義」を基本方針に近代日本の学校諸制度を整備、その後の教育行政に引き継がれていく

  • 1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行、帝国大学令により帝国大学発足、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定、大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成、これらをまとめる総長を勅任官とする

  • 1886(明治19)年、東京大学予備門第一高等中学校に、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められ全国に7校の高等中学校が誕生、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に

​→ 第一高等中学校

  • 1886(明治19)年4月、閉校の危機に直面していた東京職工学校の維持を図るため、附属学校に、翌年独立分離

  • 1886(明治19)年、私立法律学校特別監督条規、東京府下の私立法律学校5校について、帝国大学総長の監督下に(五大法律学校)、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、その補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり、高等文官試験受験の特権を認める代わりに私立法律学校について監督・干渉することが構想される

  • 1887(明治20)年7月25日、文官試験試補及見習規則、官僚任用制度として高等文官試験(高等試験)が定められる、帝国大学法科大学帝国大学文科大学の卒業生に対し無試験で高等官(勅任官・判任官)試補となる特権が与えられる、文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、この特権を得られるか否かが私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題に

  • 1893(明治26)年12月、司法省指定学校、判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格が九校の私立法律学校卒業生に与えられる、帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補任用、九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き帝国大学法科大学加えた法律学校が「九大法律学校」と呼ばれる​

  • 1894(明治27)年、第一次高等学校令公布、高等中学校を高等学校に改組、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生、総称してナンバースクールと呼ばれる、学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)が特色

​→ 第一高等学校

​← 獨逸学協会学校

​→ 東京農工大学

学校総称

学校年表

  • 1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大木喬任(40歳)、大蔵省が再び民部省を合併、民部省廃止。文部省設立に伴い、盟友・江藤新平の後任として初代文部卿に。学制施行に尽力。

  • 1871(明治4)年 箕作麟祥(26歳)文部省設立に伴い、基礎固めに参画。学制の起草・制定にあたり、起草委員長として主導的役割を果たす。司法省兼勤。

  • 1871(明治4)年 辻新次(30歳)文部省設立に伴い、文部権少丞兼大助教に。以後20年以上にわたって文部行政に従事。日本近代公教育体制の創始・確立に尽力。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

  • 1871(明治4)年9月 江藤新平(38歳)、フランス語とフランス法律の研究教育機関・司法省明法寮創立を主導。大学南校より優秀な生徒を引き抜き、フランス法律実務の専門家を育成。​

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

開成所・大学南校

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、東校南校と同様に一旦閉鎖。学則改正後、再開。入学試験を実施、学力優秀者の再入学を許可。

医学所・大学東校

東京大学医学部

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)岩倉遣欧使節団文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

  • 1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。

  • 文部省学監ダビット・モルレー、東京大学設立、東京女子師範学校および附属幼稚園設立、教育博物館設立、東京学士会院設立、官立諸学校の教則制定・改正などの実現に尽力。1873(明治6)年6月に来日、1878(明治11)年12月の契約満了に伴い、アメリカ帰国。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

  • 1872(明治5)年 - 1873(明治6)年、司法省顧問としてジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが来日。司法省明法寮教員に。フランス語による本格的な法学教育を開始。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1873(明治6)年4月10日、学制条文追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。

1873(明治6)年7月 明六社結成

アメリカより帰国した森有礼富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直西周西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

  • 1873(明治6)年7月 森有礼(27歳)、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長就任。

  • 1873(明治6)年 箕作麟祥(28歳)明六社に参加。『明六雑誌』に「リボルチーの説」など寄稿、啓蒙活動に尽力。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。

1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視

・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

  • 1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立。開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合。東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に。翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される。

  • 東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。

​→ 東京外国語大学

  • 1873(明治6)年11月、工部省工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1873(明治6)年11月 箕作麟祥(28歳)、ボアソナードが来日。以降、ボアソナードの下で法典編纂に従事。

  • 1874(明治7)年 箕作麟祥(29歳)、5年の歳月をかけ、フランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』上申。日本で初めて「権利」・「義務」という訳語を用いたほか、訳語を新規に創作。日本国に初めて近代法典を知らしめる。近代的裁判制度への大きな転換期にあり、手探りの中で裁判にあたっていた当時の司法官に多大な影響を与え、その後の日本の近代的法制度整備の基礎を築く。このことから、「法律の元祖」と評される。Constitutionを「憲法」と訳し、定着させる。

1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動

明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。

自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。

  • 1874(明治7)年1月12日 板垣退助(38歳)、『五箇条の御誓文』の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成。後藤象二郎・江藤新平らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出するも、却下される。

  • 1874(明治7)年 加藤弘之(39歳)、『国体新論』発表。天賦人権論の立場から人民の自由尊重を述べ、国家・政府・人民のあり方を説く。この頃まで、民撰議院設立尚早論を展開するも平等思想啓蒙の立場に立つ。自由民権運動の高まりを受け、次第に人権思想否認に傾斜。自ら『国体新論』・『真政大意』を絶版に。

  • 1874(明治7)年2月3日 加藤弘之(39歳)、『日新真事誌』に民撰議院設立尚早論掲載。

  • 1874(明治7)年3月 森有礼(28歳)明六社にて機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たす。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散。後に、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院に至る。

  • 1874(明治7)年 正木退蔵(29歳)、帰国。開成学校教授補に。教授として招聘されたアトキンソンを補佐、化学を講義。

  • 1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1874(明治7)年 濱尾新(26歳)、アメリカ留学より帰国。東京開成学校校長心得に。

1874(明治7)年12月 官立外国語学校、英語学校に改称

愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城の官立外国語学校、英語学校に改称。

  • 1874(明治7)年、東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、東京開成学校内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする製作学教場設立。後の東京職工学校(現・東京工業大学)の前身に。

  • 1875(明治8)年5月、司法省所管の法学校、司法省法学校設立。麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩邸の建物を校舎に。卒業者に「学士」の称号を与えることができる司法省管轄の高等教育機関となる。

  • 1875(明治8)年 目賀田種太郎(23歳)文部省の留学生監督となり、再渡米。東京開成学校の生徒9人(鳩山和夫・小村寿太郎・菊池武夫・斎藤修一郎・長谷川芳之助・松井直吉・原口要・平井晴二郎・南部球吾)を引き連れる。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身もハーバード法律学校で法律を学ぶ。

  • 1875(明治8)年 松井直吉(19歳)、アメリカ留学。文部省の第1回海外派遣留学生としてコロンビア大学鉱山学科入学。化学を学ぶ。

  • 1875(明治8)年 - 1880(明治13)年 古市公威(22-27歳)、諸芸学修行のため、文部省最初の留学生として、欧米諸国へ派遣。1879(明治12)年8月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)卒業。工学士の学位取得。パリ大学理学部入学。翌1880(明治13)年、卒業。理学士の学位取得。

1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足

江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。

法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。

  • 東京大学法学部では英米人御雇教師により英米法が講じられ、司法省明法寮(後に司法省法学校)ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校は英語・フランス語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。

  • 1876(明治9)年6月 正木退蔵(31歳)東京開成学校のイギリス留学生監督として、穂積陳重・岡村輝彦・向坂兌・桜井錠二・杉浦重剛・関谷清景・増田礼作・谷口直貞・山口半六・沖野忠雄の10名を引率、アメリカ経由で再びロンドンに渡る。文部省に留学生の就学状況報告。

  • 1876(昭和9)年7月、司法省法学校、第一期生20名が卒業。この時点では、法律学士の称号授与の権能を有していなかったため、称号授与は行われず。第一期生はギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる旧民法など法典編纂に協力。民法典論争において断行派の中核に。

  • 司法省法学校、第一期生卒業を受け、第二期生入学。第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)、定員100名に増員。予科はフランス語を中心とする普通教育、本科はフランス語による法学教育が行われる。第一期・第二期卒業生の多くが、フランス法系私立法律学校の創立者や校長・講師となる。

  • 1876(明治9)年9月3日 手島精一(27歳)製作学教場事務取締を兼務。はじめて、工業教育にあたることに。​

  • 1877(明治10)年1月工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

  • 1877(明治10)年1月 辻新次(36歳)、文部権大書記官に。東京大学設立に従事。文部大輔・田中不二麿の下、教育令の制定に参画。

  • 1877(明治10)年2月1日 加藤弘之(42歳)東京開成学校綜理就任。文部省に対し、東京開成学校を開成大学校に昇格させるべきとする意見書提出。

1877(明治10)年2月19日 東京英語学校大阪英語学校以外の官立英語学校廃止

愛知・広島・長崎・新潟・宮城の官立英語学校、廃止。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)東京大学法・理・文三学部綜理に。

  • 1877(明治10)年 外山正一(30歳)、新たに発足した東京大学にて、日本人初の教授に。講義では徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始、これに対し学生たちより「スペンサーの番人」と揶揄される。

  • 外山正一、ミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁より、エドワード・S・モースを東京大学に招聘。

  • 1877(明治10)年 菊池大麓(23歳)、帰国後、東京大学理学部教授に。近代数学を初めて日本にもたらす。

​→ 東京大学予備門

  • 1877(明治10)年5月26日、東京大学理学部に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、製作学教場よりも高等の学術を教授するように。存続不要とみられ、製作学教場閉鎖。

  • 1877(明治10)年 箕作麟祥(32歳)、司法大書記官に。翻訳課長兼民法編纂課長に。民法編纂委員に。

  • 1878(明治11)年 正木退蔵(33歳)、渡英中、お雇い外国人を周旋。エディンバラ大学フリーミング・ジェンキン宅で物理学者ジェームズ・アルフレッド・ユーイングを紹介され、東京大学に招聘。

  • 1879(明治12)年 相馬永胤(30歳)、日本に帰国。司法省出仕、代言人に。次いで判事に任じられるも辞職。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現・東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、法律学校設立の準備に動き出す。

  • 1879(明治12)年夏 田尻稲次郎(30歳)、帰国。東京大学で経済学を講じる。後に大蔵省で部下となる阪谷芳郎・添田寿一らを教える。翌年1月、福澤諭吉の紹介を得て、大蔵省入省。大隈重信・松方正義に仕える。大蔵省任官の傍ら、専修学校創立に参加。

1879(明治12)年 東京学士会院設立

文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関東京学士会院が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之・神田孝平・津田真道・中村正直西周福澤諭吉箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉

1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化 

日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。

  • 法律学を本格的に教える教育機関は、東京大学法学部司法省法学校など極少数であった。東京大学法学部が英語、司法省法学校が仏語で教授していたのに対し、専修学校法律科は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学に。多くの学生を集める。

  • 1880(明治13)年12月、文部省通達により、大阪専門学校は官立中学校に改組。大阪中学校に改称。最初の官立中学校であり、未整備であった中学校の模範となることが期待される。

  • 1880(明治13)年12月11日 折田彦市(32歳)文部省の財政問題などを原因に、大阪専門学校の中学校改組が行われる。大阪中学校校長に。大学進学のための予科を主体とする学校となり、拡充を目指していた本科・医学科は消滅。在校生の行く先を求めて奔走することに。目まぐるしく変わる文部省の教育政策に対し、不満をあらわに。

  • 折田彦市当時、中等教育と高等教育の接続方法も定まっておらず、中学校に関する運営方針が未整備であった。寄宿舎の整備・体操教育の導入など、後の中学校の在り方を方向付け、指導的な役割を果たす。中学校を大学に直接接続する学校として整備する一方、大阪中学校を大学相当の教育機関に発展させることを構想。

  • 1880(明治13)年 松井直吉(24歳)、アメリカ留学より帰国。東京大学理学部講師に。翌1881(明治14)年、教授に。化学担当。

  • 1880(明治13)年 嘉納治五郎(21歳)東京大学の学園祭にて、戸塚派楊心流柔術一門の演武披露に飛び入り参加。小柄な身でありながら楊心流戸塚一門の巨漢と試合をして勝ち、一躍世間の話題となる。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生

東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

  • 1881(明治14)年5月26日 手島精一(32歳)東京開成学校製作学教場の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続ける。文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。官立の東京職工学校(現・東京工業大学)創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、東京大学理学部を卒業した日本人教員が教鞭をとる。機械工芸科・化学工芸科からなる本科および予科設立。先行の東京開成学校製作学教場工部大学校東京大学大学理学部の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵

  • 東京職工学校、浅草蔵前の浅草文庫の建物にて、新校舎建設と開学準備が行われる。「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで、蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台となる。

  • 東京職工学校、開校当初、前近代の伝統的な徒弟制度の下での技術伝承より、近代的・科学的な技術教育への転換を背景とするさまざな困難に直面。生徒がなかなか集まらず、入学者の中からも退学が続出するなど不振の時期が続く。不振を理由に、農商務省への移管論・不要論・廃止論が絶えず。

​→ 東京工業大学

  • 1881(明治14)年7月6日 加藤弘之(46歳)、機構改革により新設された東京大学初代総理に就任。

  • 1881(明治14)年 渋沢栄一(42歳)、官尊民卑の世俗を憂い、また東京大学学生の実業軽視の風を嘆じ、東京大学総理・加藤弘之に訴える。是非、実際に学生に講じて欲しいと依頼され、東京大学文学部講師に。日本財政論を教える。

  • 1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 1881(明治14)年 古市公威(28歳)内務技師勤務の傍ら、東京大学講師を兼任。以後、技術官僚と大学教官を兼務。

  • 1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。

  • 1882(明治15)年3月 小野梓(31歳)大隈重信幕下として、東京大学学生を中心とする鷗渡会を率い、立憲改進党結成に参加。

  • 1882(明治15)年4月 小野梓(31歳)大隈重信より鷗渡会会員に学校設立の話が持ちかけられる。来る立憲政治の指導的人材養成を主たる目的として学校設立を構想。鷗渡会が創立を支援。

東京大学年表

開成所・大学南校

  • 1882(明治15)年夏 森有礼(36歳)、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・繁栄のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い強感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。

  • 1882(明治15)年10月21日 小野梓(31歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、東京専門学校(現・早稲田大学)創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。

  • 東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。

  • 1882(明治15)年 外山正一(35歳)東京大学同僚の矢田部良吉・井上哲次郎と共に『新体詩抄』発表。従来の和歌・俳句と異なる新時代の詩の形式を模索、近代文学に多大な影響を及ぼす。

  • 1883(明治16)年 品川弥二郎(41歳)、北白川宮能久親王を会長、自身を委員長に獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。学校運営において中心的役割を果たす。

  • 1884(明治17)年3月 森有礼(36-37歳)伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」

  • 1884(明治17)年7月、司法省法学校、二期生卒業。入学生104名中、卒業生37名。法律学士の称号を授与(東京大学法学部卒業生の称号は法学士)。第一期生20名およびフランス留学5名にも法律学士の称号が与えられる。

  • 1884(明治17)年 外山正一(37歳)、日本語のローマ字化推進のため羅馬字会を結成。矢田部良吉らが参加。漢字や仮名の廃止を唱える。

  • 1885(明治18)年8月、東京大学予備門東京大学付属より分離。文部省の管轄に。制度を改め、東京大学の予備教育機関であるばかりでなく、他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関と拡張される。

東京外国語学校(旧外語)

  • 1885(明治18)年9月、東京大学法学部東京法学校を併合。東京大学法学部仏法科設置。

司法省法学校

 

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 1885(明治18)年12月 辻新次(44歳)、内閣制度発足、森有礼初代文部大臣就任に伴い、大臣官房長兼学務局長に。

  • 1885(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

​← 工部大学校

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、学位令を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

  • 1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。

 

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年3月、帝国大学令により、東京大学法政学部帝国大学法科大学に。法律学科・政治学科を設置。初代法科大学長に渡辺洪基

  • 1886(明治19)年 和田垣謙三(27歳)帝国大学法科大学教授に。金井延と共にもに学部を主導、シュタインやワグナーの社会政策学派財政学を導入。自由主義経済学からの転換を促す。

  • 1886(明治19)年3月、帝国大学令により、東京大学工芸学部工部大学校が合併。帝国大学工科大学となる。初代工科大学長に、古市公威

  • 1886(明治19)年3月 古市公威(33歳)帝国大学工科大学初代工科大学長に。

  • 1886(明治19)年 松井直吉(30歳)帝国大学工科大学教授に。応用化学を教える。

  • 1886(明治19)年3月、帝国大学令により、東京大学文学部帝国大学文科大学に。第一科哲学科・第二科和文学科・第三科漢文学科・第四科博言学科を設置。初代文科大学長に、外山正一

  • 1886(明治19)年 外山正一(39歳)帝国大学文科大学初代文科大学長に。

  • 1886(明治19)年 神田乃武(30歳)帝国大学文科大学教授に。ラテン語・ギリシャ語を教える。

  • 1886(明治19)年3月、帝国大学令により、東京大学理学部帝国大学理科大学に。数学科・星学科・物理学科・化学科・動物学科・植物学科・地質学科を設置。初代学長に、菊池大麓

  • 1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。

​→ 第一高等中学校

  • 1886(明治19)年4月29日 手島精一(37歳)、閉校の危機に直面していた東京職工学校の維持を図るため、帝国大学附属学校への移管を取りまとめる。

  • 1886(明治19)年、東京職工学校、学校維持を図るため、帝国大学附属学校に移管。

1886(明治19)年12月 文部省官制

文部省官制制定。「文部大臣ハ教育学問ニ関スル事務ヲ管理ス」と定め、総務局・学務局・編輯局・会計局を置く。また学事視察のため視学官を置く。

1886(明治19)年 私立法律学校特別監督条規

東京府下に所在し、特に教育水準が高く特別許認可を受けた英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)の5校について、帝国大学総長の監督下に。帝国大学特別監督学校(五大法律学校)となる。​

背景に、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、新たに私立法律学校にもその補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり。また、高等文官試験受験の特権を認める代わりに、放任されていた私立法律学校について監督・干渉することが構想された。

 

1887(明治20)年5月21日 学位令

日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。

1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。

1887(明治20)年7月25日 文官試験試補及見習規則

官僚任用制度として、高等文官試験(高等試験)が定められる。試験は奏任官対象の高等試験と判任官対象の普通試験の二種類が設けられる。帝国大学法科大学帝国大学文科大学の卒業生に対し、無試験で高等官(勅任官・判任官)の試補となる特権が与えられる。

文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)に加えて、独逸学協会学校と東京仏学校(後に東京法学校と合併し和仏法律学校、現・法政大学)の7校が認可される。この特権を得られるか否かが、私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題となる。

  • 1887(明治20)年10月4日、東京職工学校、最初の卒業式を挙行した後、再び独立学校として帝国大学より分離。

​→ 東京工業大学

1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)

君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。

明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。

版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。

衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。

  • 1889(明治22)年9月9日 箕作麟祥(44歳)、和仏法律学校(後に東京仏学校と合併、現・法政大学)初代校長に。司法次官の公務の傍ら、校務にあたる。ボアソナードが教頭を務める。民法典論争において、法典実施断行派の拠点に。

1889(明治22)年 - 1892(明治25)年 民法典論争

旧民法施行の是非を巡り論争展開。延期派は、「法典が簡明でなく」・「内容もフランス法的に過ぎる」・「拙速主義に依らず、条約改正事業と切り離して慎重に編纂すべき」と主張。断行派は、「形式上の問題は認めるが」・「内容面では十分日本の慣習を尊重している」・「法典断行が条約改正および司法権の確立に資する」と反論。論争の結果、延期派が勝利。ドイツ民法第一草案をはじめとする比較法研究を踏まえ、旧民法の形式上の欠点を克服しながら、現行日本民法典の成立に至る。

  • 箕作麟祥、民法典論争において、ボアソナード民法典をベースとする旧民法典の実施断行を主張。施行延期が決まった後も、法典調査会主査委員に任命され、新民法典編纂に積極的に関わっていく。1984(明治27)年に法典調査会副総裁を務めた西園寺公望は、総裁・伊藤博文に対し、副総裁を箕作麟祥に譲りたいと願い出ている。

  • 1890(明治23)年、農商務省主管の東京農林学校帝国大学に統合。帝国大学農科大学に再編。東京農林学校別科を帝国大学乙科に。農業教員養成のため、農業教員養成所付設。初代学長に、松井直吉帝国大学側は一時この合併に猛反発。大学評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。理由として、大学評議会への諮問がなかったこと、東京農林学校の学科水準が帝国大学の分科大学の程度にないという判断がなされたことなど。

​← 東京農林学校

  • 1890(明治23)年 松井直吉(34歳)帝国大学農科大学設立。初代農科大学長に。以後、死去まで長年ににわたり農科大学長を務める。教授兼務、化学を教える。東京化学会(現・日本化学会)会長を務めるなど、日本の化学の中心となる。

1890(明治23)年10月30日 教育ニ関スル勅語(教育勅語)

近代日本の教育の基本方針として発布。​

  • 1893(明治26)年3月 濱尾新(45歳)加藤弘之帝国大学総長を辞任。後任に推薦される。帝国大学第3代総長に就任。

1893(明治26)年12月 司法省指定学校

司法省が判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格を関西法律学校(現・関西大学)・日本法律学校(現・日本大学)・東京法学院(現・中央大学)・独逸学協会学校(獨協大学の源流)東京専門学校(現・早稲田大学)・明治法律学校(現・明治大学)・慶應義塾(現・慶應義塾大学)専修学校(現・専修大学)・和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与える。帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された。

九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き、帝国大学法科大学加えた法律学校を「九大法律学校」と呼ぶ。​

1894(明治27)年6月25日公布 第一次高等学校令

1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。

専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。

但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。

  • 文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。

  • 1894(明治27)年5月1日、高等学校令により、第三高等学校に改組。予科を置かず、将来の大学昇格を視野に法学部・工学部・医学部設置。初代校長に、折田彦市

  • 1894(明治27)年 折田彦市(46歳)第三高等学校初代校長に。「無為にして化す」の教育方針が三高の「自由」の精神を体現。生徒の人格を最大限認め、可能な限り干渉を排する姿勢を貫く。

​→ 第三高等学校

  • 1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。

​→ 第一高等学校

  • 1896(明治29)年 松崎蔵之助(31歳)、ドイツ・フランス留学。帰国後、帝国大学法科大学帝国大学農科大学教授に。

​← 獨逸学協会学校

  • 1897(明治30)年6月18日、京都帝国大学創立。理工科大学設置。次いで、法科大学・医科大学・文科大学設置。帝国大学を東京帝国大学に改称。以降、帝国大学令は東京帝国大学以外の帝国大学も適用対象に。

京都帝国大学

  • 1897(明治30)年9月、高等商業学校、予科1年・本科3年の上に専攻部(1年)設置。大学昇格を目指す。

  • 1897(明治30)年、学区制廃止。第一高等学校は全国から受験可能に。

  • 1898(明治31)年、東京帝国大学農科大学乙科東京帝国大学農科大学実科に。札幌農学校実科と共に、旧制専門学校レベルの教育機関としての役割を果たす。

東京外国語大学(新外語)

  • 1900(明治33)年7月 渋沢栄一(61歳)高等商業学校の同窓会にて、商業大学必要論を開陳。設立について調査研究を続ける。商業大学実現のために斡旋尽力。

  • 1901(明治34)年1月 神田乃武(45歳)、​欧州留学中の高等商業学校教授7名(石川巌・石川文吾・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)と共に、ベルリンにおいて『商業大学の必要』を建議。専攻部の設置・拡充や卒業者への商業学士授与を足がかりに、大学昇格運動開始。

  • 明治30年代 松崎蔵之助、金井延と共に、東京帝国大学法科大学へ社会政策学派の経済学移植に貢献、一時代を築く。ワグナーに強く影響を受ける。門下生に、柳田国男・高野岩三郎・河上肇ほか。

  • 1903(明治36)年 三宅秀(56歳)東京大学最初の名誉教授に。

  • 1903(明治36)年6月 - 1906(明治39)年1月、日露戦争開戦直前、東京帝国大学教授の戸水寛人・富井政章・小野塚喜平次・高橋作衛・金井延・寺尾亨、学習院教授の中村進午の7人が、内閣総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村壽太郎に意見書提出(七博士意見書)。桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。「満州・朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、対露武力強硬路線の選択を迫った。主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかった。日露戦争末期、戸水寛人は賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。文部大臣・久保田譲は文官分限令を適用、休職処分とする。ところが、戸水寛人は金井延・寺尾亨と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出。文部大臣・久保田譲は、東京帝国大学総長・山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言。このため、1906(明治39)年1月、戸水寛人の復帰が認めらた(戸水事件)。

  • 1905(明治38)年12月2日 松井直吉(49歳)東京帝国大学総長を兼任。就任12日で辞任。帝国大学農科大学農科大学長は辞職せず。

  • 1905(明治38)年12月 濱尾新(57歳)東京帝国大学総長に再任。戸水事件対処などにあたる。

  • 1907(明治40)年、『商科大学設置に関する建議案』が帝国議会を通過。東京高等商業学校の大学昇格運動は最高潮に。

1908(明治41)年 - 1909(明治42)年 申酉事件

大学への昇格を目指す東京高等商業学校に対し、第2次桂内閣および文部省東京帝国大学法科大学に経済・商業2科を新設し、さらに東京高等商業学校専攻部を廃止、東京帝国大学法科大学に事実上吸収する方針を決定。商業大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる商業大学昇格運動は挫折。運動を進めてきた関一佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。

  • 東京高等商業学校は、単独での大学昇格を第一の目標とした。次善の策として、東京帝国大学内に東京高等商業学校を母体とした商科大学を新設することも止む無しとしていた。しかし、文部省はいずれの案も認めず。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 第二次高等学校令

高等教育の拡大・改善を目的に。高等学校を「男子ノ高等普通教育ヲ完成スル」ための機関と位置付け、その内容を拡大・充実。官立のナンバースクールのみであった高等学校が、官立・私立・公立に拡大。1943(昭和18)年までに、高等学校は33校に。

1919(大正8)年2月7日公布・4月1日施行 第二次帝国大学

帝国大学令を全部改正。分科大学制を廃止、学部制に。帝国大学官制により、総長・学部長・教授・助教授その他必要な職員を設置。

  • 1919(大正8)年4月1日東京帝国大学、第二次帝国大学令により学部制へ。法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部に加えて経済学部を新設。

  • 1919(大正8)年 松崎蔵之助(54歳)、新設された東京帝国大学法科大学経済学部教授に。

  • 1921(大正10)年11月、第二次高等学校令に基づき、官立・東京高等学校創立。日本初の官立七年制高校で尋常科および文科・理科からなる高等科を設置。独特の教育制度の下、数々の傑出した人材を生み出す。東京帝国大学への進学率は8割に。初代校長に、湯原元一

​→ 大阪帝国大学

  • 1935(昭和10)年4月、東京帝国大学農学部実科東京帝国大学より独立。東京高等農林学校(現・東京農工大学)創立。背景に専門学校令により高等教育機関が随時拡張、全国で農林系専門学校が相次いで設立されたことで実科の廃止論があがっていた。東京帝国大学農学部第一高等学校との敷地交換により駒場から本郷に移転する際、付属実科を本郷に移転せず分離独立という手段で存続。

​→ 東京農工大学

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 教員養成について、連合国軍最高司令官総司令部よりアメリカに倣って大学で行うよう指導。アメリカのリベラルアーツカレッジなどを手本に、各地の師範学校は新制大学の教育学部・学芸学部として再出発することに。

1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法

文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。

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