ダイガクコトハジメ - 大学予備門/第一高等学校
大学予備門/第一高等学校
創立年 : 1877(明治10)年4月12日
前史 :
天文方蛮(蕃)書和解御用 → 洋学所 → 蕃書調所 → 洋書調所 → 開成所 → 開成学校 → 大学校(大学)/大学南校 → 南校 → 第一大学区第一番中学校 → 開成学校 → 東京開成学校 → 東京開成学校本科が東京大学法学部・理学部・文学部に
開成学校語学課程(英・独・仏)・独逸学教場・外国語学所を統合、東京外国語学校(旧外語) → 東京外国語学校英語科が東京英語学校として独立 → 東京外国語学校(旧外語)の英・仏・独3語科が東京大学予備門に合併、英・仏・独以外の語学科が東京商業学校に合併 → 東京外国語学校(旧外語)、廃校
東京開成学校予科 → 東京英語学校と統合、東京大学予備門に → 東京外国語学校英・仏・独3語学科を合併 → 第一高等中学校 → 第一高等学校 → 東京高等学校高等科と併合、 東京大学教養学部に
共立病院 → 公立千葉病院と改称、公立千葉病院医学教場を付設 → 県立千葉医学校および県立千葉医学校付属病院設置 → 高等中学校令に伴い官立に、第一高等中学校医学部 → 第一高等学校医学部 → 千葉医学専門学校 → 千葉医科大学 → 千葉大学医学部
「大学予備門/第一高等学校」年表
1873(明治6)年4月10日
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「南校」、「第一大学区第一番中学校」、学制における「専門学校」へと改変。再び、「(第一大学区)開成学校」へ改称。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
1873(明治6)年8月
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「開成学校」、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。
1873(明治6)年11月
1873(明治6)年11月4日
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官立外国語教育機関である「開成学校語学課程(英・独・仏の3科)」・「独逸学教場」・「外国語学所」を統合、「東京外国語学校」設立。翌1874年までに全国で8校の官立外国語学校が設立されたが、官立最初の語学学校となる。「語学校」とも呼ばれる。
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「東京外国語学校」、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置。後に英語科が分離、朝鮮語科が増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
1873(明治6)年末
1874(明治7)年5月
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「開成学校」、「東京開成学校」に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の「本科」に再編される。加えて、修業年限3年の「予科」が設けられる。
1874(明治7)年7月
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「共立病院」、千葉町、寒川村、登戸村(現在の千葉市)有志および三井組の醸金により設立。
1875(明治8)年11月
1876(明治9)年10月
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「共立病院」、「公立千葉病院」と改称。「公立千葉病院医学教場」を付設。
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。
1877(明治10)年4月12日
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「東京英語学校」と「東京開成学校予科」が統合、「東京大学予備門(後に、第一高等中学校、第一高等学校)」設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、「東京大学法・理・文三学部」入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、「東京大学医学部」は別に予科を設ける。
1877(明治10)年
1879(明治12)年
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神田乃武(21-22歳)、帰国。「大学予備門」教授に。英語を教える。
1880(明治13)年6月4日
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服部一三(29歳)、「東京大学法・理・文三学部」綜理に。「東京大学予備門」予備門長を兼務。
1881(明治14)年
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「東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。
1882(明治15)年6月
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「東京大学医学部予科」を「東京大学予備門」に合併。「東京大学予備門」は、「東京大学」各学部に入学する全生徒に対する基礎教育・語学教育機関に。
1885(明治18)年8月
1885(明治18)年9月
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「東京外国語学校」、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は「東京大学予備門」に合併、英・仏・独以外の語学科が「東京商業学校」に合併される。「東京商業学校」合併に対し、「東京外国語学校」学生は激しく反発、中退者も出現。「東京外国語学校」は廃止に。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布
学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日
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学校令により、高等中学校の制度が成立。「東京大学予備門」は、「第一高等中学校」に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置するこが定められる。「第三高等中学校(京都)」、「山口高等中学校」、「第二高等中学校(仙台)」、「第四高等中学校(金沢)」、「第五高等中学校(熊本)」、「鹿児島高等中学造士館」が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。「東京大学予備門」から設立された「第一高等中学校」だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が「帝国大学」へ進学する制度に。
1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行
帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。
1887(明治20)年9月
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高等中学校令施行に伴い、「県立千葉医学校」は官立に移管、「第一高等中学校医学部」に。「第一高等中学校」への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、「県立千葉医学」長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定した。
1887(明治20)年12月
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長尾精一(35-36歳)、「第一高等中学校医学部」、医学部長、医学主事に。
1889(明治22)年5月
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三輪徳寛(29歳)、「第一高等中学校医学部」教諭に。外科学を担当。あわせて、付属の県立千葉病院において外科担当。
1893(明治26)年6月19日
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嘉納治五郎(32歳)、「第一高等中学校」校長に。
1894(明治27)年6月25日公布
第一次高等学校令、1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、高等学校に改組することを目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。「帝国大学」に入学する者のための予科を設けることができるとしつつ、専門学校を教授することを原則とした。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。一方、制度としては従属的な扱いであった大学予科は、大いに発展。
1894(明治27)年7月
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高等学校令施行に伴い、「第一高等中学校医学部」は官立に移管、「第一高等学校医学部」に。
1894(明治27)年7月
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長尾精一(42-43歳)、「第一高等学校医学部」、医学部主事に。
1894(明治27)年9月11日
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第一次高等学校令により、「第一高等中学校」を「第一高等学校」に改組。卒業生の多くは「東京帝国大学」進学。政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度(全寮制)。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、「帝国大学」を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置、専門教育機関として高等学校を機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた「帝国大学」を改革することはできず、日清戦争後は「帝国大学」そのものが増設。高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強めたため、構想は実現せず。
1897(明治30)年
帝国大学令、「京都帝国大学」設置以降、「東京帝国大学」以外の帝国大学も適用対象に。
1897(明治30)年
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学区制廃止。「第一高等学校」は全国から受験可能に。
1897(明治30)年9月3日 - 1899(明治32)年8月24日
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三輪徳寛(37-39歳)、官費留学生が「帝国大学」教授だけでなく、「高等中学校医学部」教授にも認められることに。「高等中学校教授」の第一回官費留学生として、木村孝蔵・田代正と共にドイツ留学。留学先にて、呉秀三・佐藤達次郎・岡村達彦・高安道成らと行動を共にすることも。
1901(明治34)年4月1日
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行
第二次高等学校令、高等教育の拡大・改善を目的に。高等学校を「男子ノ高等普通教育ヲ完成スル」ための機関と位置付け、その内容を拡大・充実。官立のナンバースクールのみであった高等学校が、官立・私立・公立に拡大。1943(昭和18)年までに、高等学校は33校に。
1935(昭和10)年4月
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「東京帝国大学農学部実科」、「東京帝国大学」より独立、「東京高等農林学校」創立。背景に、専門学校令により高等教育機関が随時拡張、全国で農林系専門学校が相次いで設立され、実科の廃止論があがっていた。「東京帝国大学農学部」が旧制「第一高等学校」との敷地交換により駒場から本郷に移転する際、付属実科を本郷に移転せず分離独立という手段で存続。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。
1949(昭和24)年5月31日公布・施行
国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。
1949(昭和24)年5月31日
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国立学校設置法により、新制「東京大学」設立。「第一高等学校」と「東京高等学校高等科」を併合、「東京大学教養学部」設置。「第一高等学校」は、「東京大学第一高等学校」に。翌1950(昭和25)年3月24に廃止。「東京大学教養学部」に内包される。