筑波大学
山川浩
やまかわひろし
1845(弘化2)年11月6日/12月4日 - 1898(明治31)年2月4日
1845(弘化2)年11月6日/12月4日
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山川浩、会津藩国家老・山川重固と母・えんの子として生まれる。
1860(万延元)年
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山川浩(14-15歳)、父・山川重固が亡くなる。家督相続。
1862(文久2)年
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山川浩(16-17歳)、会津藩主・松平容保の京都守護職拝命に伴い、上洛。
1866(慶応2)年
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山川浩(20-21歳)、幕府の使者と同行、ロシア渡航。ヨーロッパ諸国を見聞、世界の大勢を知り、攘夷の非を悟る。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年
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山川浩(22-24歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦。若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力。日光口の戦い、土佐藩・谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退。藤原では追撃してくる敵軍を敗走、敵軍は中村半次郎が来るまで会津に突入することが出来なかった。会津戦争、既に包囲された会津若松城に入城できず。会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じる。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城。
1870(明治3)年
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山川浩(24-25歳)、戊辰戦争後、禁固謹慎に。斗南藩(旧会津藩)権大参事に就いたものの、藩の実収は少なく、生活は困窮。
1871(明治4)年
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山川浩(25-26歳)、廃藩置県、青森県へ出仕。
1873(明治6)年
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山川浩(27-28歳)、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、陸軍に八等出仕。陸軍少佐として熊本鎮台に移る。
1874(明治7)年
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山川浩(28-29歳)、佐賀の乱で左腕に重傷を負うものの、陸軍中佐に昇進。
1877(明治10)年
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山川浩(31-32歳)、西南戦争、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征、選抜隊を率いる。薩摩軍が攻囲、熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城への入城に成功、救援部隊第1号に。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉え、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の 利きか鈍きか」という歌を詠む。
1880(明治13)年
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山川浩(34-35歳)、陸軍大佐に。
1886(明治19)年3月6日
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山川浩(37-38歳)、文部大臣森有礼の命により、現役の陸軍軍人として「高等師範学校」初代校長に。授業料値上げの増収により、良い教師を招聘、大いに校風を振起。軍人であり規律に厳しく、秩序が整然としたものに。
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山川浩、陸軍少将に。
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山川浩、陸軍省総務局制規課長を最後に、予備役に。
1890(明治23)年7月
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山川浩(44歳)、第1回衆議院議員総選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補、落選。
1890(明治23)年9月29日
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山川浩(44歳)、貴族院議員に勅選。
1890(明治23)年
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小幡篤次郎(47-48歳)、学識者として貴族院議員に。谷干城・三浦安・山川浩と共に懇話会に所属。貨幣制度調査委員に。
1898(明治31)年1月26日
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山川浩(52歳)、軍務等の功により、男爵に叙せられる。
1898(明治31)年2月4日
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山川浩(52歳)、死去。享年、52歳。
