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山川浩

山川浩

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年表

山川浩

やまかわひろし

1845(弘化2)年12月4日(旧暦・11月6日) - 1898(明治31)年2月4日

陸軍軍人・陸軍大佐、高等師範学校(現・筑波大学)初代校長、貴族院議員

  • 1845(弘化2)年12月4日(旧暦・11月6日) 山川浩(1歳)、会津藩国家老・山川重固と母・えんの子として生まれる。

  • 1860(安政7/万延元)年 山川浩(16歳)、父・山川重固が亡くなる。家督相続。

  • 1862(文久2)年 山川浩(18歳)、会津藩主・松平容保の京都守護職拝命に伴い、上洛。

  • 1866(慶応2)年 山川浩(22歳)、幕府の使者と同行、ロシア渡航。ヨーロッパ諸国を見聞、世界の大勢を知り、攘夷の非を悟る。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年 谷干城(32歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い。板垣退助と共に藩兵を率い、出動。迅衝隊の小軍監として、北関東・会津戦争で活躍。3月、新選組から改名した甲陽鎮撫隊を甲州勝沼の戦いで破る。江戸開城で待機。4月、北上、日光山で旧幕府軍と対峙、今市の戦い。5月、土佐へ戻る。戦線へ復帰。会津へ向かう。8月、会津城籠城戦に加わる。11月、土佐へ凱旋。戦功として家禄400石に加増、仕置役に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 板垣退助(32歳)、土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として、谷干城と共に藩兵を率いる。東山道先鋒総督府の参謀として従軍。

  • 1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 山川浩(24-25歳)、​戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦。若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力。日光口の戦い、土佐藩・谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退。藤原では追撃してくる敵軍を敗走、敵軍は中村半次郎が来るまで会津に突入することが出来なかった。会津戦争、既に包囲された会津若松城に入城できず。会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じる。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城。

  • 1870(明治3)年 山川浩(26歳)、​戊辰戦争後、禁固謹慎に。斗南藩(旧・会津藩)権大参事に就いたものの、藩の実収は少なく、生活は困窮。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年 山川浩(27歳)、廃藩置県に伴い、青森県へ出仕。

  • 1872(明治5)年7月 谷干城(36歳)、明治新政府に出仕、兵部権大丞に。

  • 1873(明治6)年 谷干城(37歳)、陸軍裁判長に転任。陸軍少将に。

  • 1873(明治6)年 山川浩(29歳)、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、陸軍に八等出仕。陸軍少佐として熊本鎮台に移る。

  • 1874(明治7)年2月 谷干城(38歳)、佐賀の乱。岩村高俊県令の護衛として派遣した部下の山川浩率いる第11大隊が、佐賀城で不平士族に包囲される。大隊約300人のうち半分近くを失う痛手。大阪・東京鎮台からの増援により、乱を鎮圧。

  • 1874(明治7)年 山川浩(30歳)、佐賀の乱で左腕に重傷を負うものの、陸軍中佐に昇進。

  • 1877(明治10)年 谷干城(41歳)、西南戦争、52日にわたって薩軍の攻撃から熊本城を死守。政府軍の勝利に貢献。薩軍からは反政府派の1人とみなされ、樺山資紀と共に寝返りを期待されるも、薩摩軍との対決を選び籠城。2月19日、熊本城から出火、天守閣を始め主要施設を失い、兵糧が欠乏。22日、開始された薩軍の攻撃を必死に耐えしのぐ中、銃撃で樺山資紀が負傷。与倉知実も戦死。苦戦になったが、侵入を防ぐ。薩摩軍は翌23日にも攻撃、失敗したため強襲を諦める。24日から包囲に切り替え。包囲中、鎮台兵と薩摩軍の攻防は続く。3月、北から救援軍が迫り、海路からも別働隊(衝背軍)が南の八代に上陸。熊本城に近付く。4月8日、奥保鞏を隊長とする外部との連絡部隊を城外へ放ち、衝背軍との合流に成功。11日、狙撃され重傷を負う。14日、旧知の山川が衝背軍の一部隊を率いて熊本城へ入城、包囲は解放。籠城後も休む暇はなく山縣有朋の指揮下で九州を転戦。19日、鎮台兵は城東会戦で薩軍と戦い、大分方面へ転戦、野村忍介の部隊とも激戦を展開。9月、城山の戦いで終止符を打つ。西南戦争の勝利により、名声が高まる。政府や明治天皇の信頼を獲得、軍部からも一目置かれるように。

  • 1877(明治10)年 山川浩(33歳)、西南戦争、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征。選抜隊を率いる。薩摩軍が攻囲、熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城への入城に成功、救援部隊第1号に。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉え、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の 利きか鈍きか」という歌を詠む。

  • 1880(明治13)年 山川浩(36歳)、陸軍大佐に。

  • 1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。

  • 森有礼、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・反映のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。

  • 1884(明治17)年3月 森有礼(36-37歳)伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」

1885(明治18)年12月22日 内閣制度創設

太政官制度廃止。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 森有礼師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

  • 1886(明治19)年3月6日 山川浩(42歳)、師範学校を「教育の総本山」とし、軍隊式教育の導入を推進する初代文部大臣・森有礼より命じられ、現役陸軍軍人として高等師範学校(現・筑波大学)初代校長に。授業料値上げの増収により良い教師を招聘、大いに校風を振起。規律に厳しく、秩序が整然としたものに。

1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令

師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。

  • 山川浩、陸軍少将に。

  • 山川浩、陸軍省総務局制規課長を最後に、予備役に。

  • 1890(明治23)年7月 山川浩(46歳)、第1回衆議院議員総選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補、落選。

  • 1890(明治23)年9月29日 山川浩(46歳)、貴族院議員に勅選。

  • 1890(明治23)年 谷干城(54歳)、貴族院議員に、政界復帰。帝国議会が開会を迎えると、学習院で掲げた皇室の藩屛たらんとし、政党・政府から自立して懇話会に属す。地租増徴に反対するなど、独自の政治運動を展開。明治天皇や元田永孚からは枢密院か宮中入りを望まれたが、それを断る。政界から皇室を守ることを決断した上での貴族院入りに。

  • 谷干城、国粋主義、農本主義的立場から、藩閥とも板垣退助ら民権派とも異なる保守的な中正主義で土佐派の重鎮として重きを成す。政治思想は天皇に忠誠を尽くす皇室崇敬、衆議院政党と政府からの独立および監視、政党・政府関係なく政策を吟味し国民の利益になる場合は賛成、そうでない内容では反対する是々非々主義、国民の利益を重視する国家主義を唱える。この思想は貴族院のほとんどの有力者が掲げ、貴族院全体が目指す普遍的な目標となり、同じく政界入りした曾我祐準と、主張が一致する三曜会の領袖・近衛篤麿と組んで政争に立ち向かう。

  • 1890(明治23)年 小幡篤次郎(49歳)、学識者として貴族院議員に。谷干城・三浦安・山川浩と共に懇話会に所属。貨幣制度調査委員に。

  • 1898(明治31)年1月26日 山川浩(54歳)、軍務等の功により、男爵に叙せられる。

  • 1898(明治31)年2月4日 山川浩(54歳)、死去。享年、52歳。

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