足利学校
上杉憲実
うえすぎのりざね
1410(応永17)年? - 1466(文正元)年閏2月6日/3月22日
1410(応永17)年?
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上杉憲実、越後に越後国守護・上杉房方の三男として生まれる。幼名、孔雀丸。
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上杉憲実、幼少の頃より「芸能に達者であり、大器晩成の人柄である」と評される。
1417(応永24)年 - 1420(応永27)年
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上杉憲実(6-10歳)、鎌倉での上杉禅秀の乱が収束、翌1418(応永25)年に従弟の関東管領・上杉憲基(山内上杉家)が死去。その後継者に選ばれて鎌倉へ入り、偏諱(山内上杉家の通字「憲」の字)を受けて憲実と名乗る。室町幕府の出先機関の鎌倉府において鎌倉公方を補佐する関東管領に就任。あわせて、上野・武蔵・伊豆の守護職となる。
1423(応永30)年6-8月
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上杉憲実(12-13歳)、小栗満重の乱を起こした常陸国・小栗氏征伐に出陣、小栗城を攻め落とす。
1428(応永35)年
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上杉憲実(17-18歳)、室町幕府4代将軍・足利義持が死去。籤引きで足利義教が6代将軍に就任。主君で4代鎌倉公方・足利持氏は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするも、上杉憲実がこれを諫止する。
1431(永享3)年 - 1432(永享4)年
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上杉憲実(20-22歳)、主君の足利持氏が幕府の改元を無視すると、謝罪の使節を派遣。翌1432(永享4)年、鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還。同年、幕府で足利将軍・義教の富士下向が協議されると、警戒して関東情勢の不穏を理由に下向の延期を促し、幕府の醍醐寺三宝院門跡満済らに進物するなど、一貫して鎌倉府と幕府との調停に努めた。
1432(永享4)年
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上杉憲実(21-22歳)、足利領主となり、室町前期には衰退していた「足利学校」の再興に尽力。鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げる。
1436(永享8)年
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上杉憲実(25-26歳)、幕府の分国である信濃国守護・小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争う。主君・足利持氏は鎌倉に支援を求めた村上頼清を助けて出兵しようとするが、「信濃は関東公方の管轄外である」として諌め出兵を阻止。合戦は小笠原政康が勝利。
1437(永享9)年7月
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上杉憲実(26-27歳)、主君・足利持氏が信濃再出兵を企画、「出兵は上杉憲実誅伐のためである」とする噂が流れ、緊迫状態が生じる。相模国藤沢へ下り、嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入る。足利持氏に在職を望まれるも、関東管領職を辞任。
1437(永享9)年8月
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上杉憲実(26-27歳)、一旦は関東管領に復職するものの、主君・足利持氏との確執は解消されないままとなった。
1438(永享10)年6月
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上杉憲実(27-28歳)、主君・足利持氏の嫡子・賢王丸が元服。慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、足利持氏はこれを無視、足利義久を名乗らせ、源義家に擬して「八幡太郎」の通称を称させ、鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。この頃、足利持氏による暗殺の噂が立ち、足利義久の元服祝儀にも欠席。嫌疑をもたれた事を不本意とし、自害を試みるも制止される。
1438(永享10)年8月-9月
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上杉憲実(27-28歳)、鎌倉を出奔、領国の上野平井城に下る。足利持氏は上杉憲実討伐のため一色氏に旗を与えて派兵。、自らも出陣。幕府は関東での事態に対し、足利持氏討伐の兵を下すと共に、信濃の小笠原政康に上杉憲実救援を命じる。9月末、小笠原軍は上野板鼻に入り、北上する鎌倉軍を打ち破る。
1438(永享10)年10月
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上杉憲実(27-28歳)、武蔵分倍河原に着陣、先鋒の一色軍を破る。旧主を攻めることをよしとせず、自ら軍を進めることはなかったが、家宰の長尾忠政が代わりに兵を進める。鎌倉軍は幕府軍に敗れ、足利持氏は出家して永安寺に入る。上杉憲実は幕府に旧主・足利持氏の助命と足利義久の関東公方就任を再三再四嘆願するも、足利義教はこれを許さず、足利持氏を殺すよう命じる。足利持氏・義久父子の成敗を固辞する姿勢から嫌疑がかけられたため、このままでは自らも攻め滅ぼされるか自害に追い込まれると覚悟。「足利学校」に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を寄進、身辺整理を行う。
1439(永享11)年
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上杉憲実(28-29歳)、相国寺・柏心周操の説得に応じ、やむなく永安寺を攻める。足利持氏・義久は自害(永享の乱)。乱後、後事を弟・上杉清方に託し、伊豆国清寺に退き出家、雲洞庵長棟高岩と称す。上杉清方はこの時に山内上杉家当主に就任したとみられるが、関東管領職の譲渡は幕府に認められなかった。
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上杉憲実、儒教の影響を強く受けており、永享の乱の折、自身の行動が「不忠」と指弾されることを恐れる。
1439(永享11)年
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上杉憲実(28-29歳)、「足利学校」を創立?
1440(永享12)年
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上杉憲実(29-30歳)、結城氏朝が足利持氏の遺児・春王丸、安王丸を擁して挙兵(結城合戦)。幕府より復帰を命じられ、やむなく出陣。その後、再び隠遁する。
1441(嘉吉元)年
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上杉憲実(30-31歳)、嘉吉の乱で足利義教が暗殺される。幕府は関東の秩序回復のため、上杉憲実に関東管領復帰を命じるも、これを拒む。また、甥で越後守護・上杉房朝に預けていた次男・上杉房顕を除く子供達も出家させ、子供達に決して還俗せぬよう命じた。このため、幕府も長年、上杉憲実の名代とみなしていた弟・上杉清方を関東管領として認めざるを得なくなった。
1444(文安元)年
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上杉憲実(33-34歳)、弟・上杉清方が死去。再び山内上杉家の家督と関東管領の地位が空白に。自分の子に後を継がせる事を許さず、山内上杉家の血を引く上杉実定を後継者に指名、家宝・家伝の文書を譲り渡してしまう。家宰の長尾景仲はこれに反発、上杉憲実と対立する。
1447(文安4)年
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上杉憲実(36-37歳)、旧主・足利持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方になると、長男・上杉憲忠が長尾景仲に擁立されて関東管領に就任した。上杉憲忠を不忠の子であるとして、所領を全て没収して義絶。あわせて、家臣・長尾氏から伊豆平井郷の所領を召し上げ、足利持氏の後室に料所として進上した。長尾氏には土地を召し上げた代わりに代替地を与えた。
1447(文安4)年
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上杉憲実(36-37歳)、足利荘及び「足利学校」に対して3か条の規定を定める。この中で「足利学校」で教えるべき学問は『三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選』のみと限定。「仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべき」とした。教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。教育の中心は儒学であったが、初代庠主・僧快元が『易経』のみならず易学にも精通していたことから、易学を学ぶために訪れる者も多く、また兵学、医学なども教えた。
1450(宝徳2)年
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上杉憲実(36-37歳)、危惧のとおり、足利成氏は江ノ島合戦を引き起こす。幕府より関東管領復帰を命じられるが、隠遁して家中とも対立しており、これに応じず。
1454(享徳3)年
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上杉憲実(40-41歳)、足利成氏は長男・上杉憲忠を暗殺、享徳の乱を引き起こす。
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上杉憲実、諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴いたとされる。諸国行脚は「主を裏切ったことへの罰」と周囲に述懐。
1466(文正元)年閏2月6日/3月22日
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上杉憲実(57歳)、長門国大寧寺にて死去。享年57歳。
